「クリエイティブってなんだべ」の初プレゼン。感涙の『気仙沼漁師カレンダー』第1作が完成!
妥協を知らない写真家が撮った1枚
いっぽうで、クリエイティブチームにも〝頭〟や〝長〟というトップが存在する。今回のプロジェクトでいえば、写真家がその任を担っていた。 藤井保は妥協を知らない写真家である。 プロデューサーである自分にも、かかわるすべてのスタッフにも厳しい人。 だからこそ、夢のなかでまで怒鳴られたりもしたのだが、坂東は知っていた。この当代きっての写真家は自分にこそ、もっとも厳しい作家であるということを。 最初のロケハンから実際の撮影が始まっても、気がつくと藤井は、気仙沼のどこかを歩いていた。道なき道を行き、山を登り、崖をくだっていた。 撮影が始まっても、もっともベストであろう場所を求めてロケハンを続けていたのだ。気仙沼の藤井保は、藤井保であり続けた。 「気仙沼つばき会」の斉藤和枝が、カレンダー作りのはじまりの頃と藤井との日々を振り返る。 「藤井さんは、シャッターを押している時間よりも、私たちの話を聞いてくれる時間のほうが長かったんじゃないかっていうぐらい、耳を傾け続けてくれました。なぜ私たちが漁師カレンダーを作りたいのか、漁師さんのいったいどこにそこまでの魅力を感じているのか、気仙沼という町で自分たちが好きなところも聞いてくださって。サン・アドさんもそうでした。 震災をきっかけにうちの商品である『金のさんま』のパッケージのリニューアルなどをお願いしたことがおつきあいの始まりなんですけど、なぜこの商品を作ったのか、この商品に込めた想いはなんなのかって、ずうっと寄り添って話を聞いてくださったんですよ。 だからこそ、『気仙沼漁師カレンダー』を(小野寺)紀子さんと思い付いた時、真っ先に坂東さんにお願いしたんです。 だけど、あの頃の私たちは、クリエイティブのなんたるかをまったくわかっていなかった。だって、ただの田舎のおばちゃんですから。クリエイティブってなんだべ、でしたから。 10年以上たったいまだって、クリエイティブのことなんてわかるはずもないんですけど、いまよりも、もっともっとわかっていなかったのだと思います」 藤井による気仙沼での撮影は続いていた。クリエイティブチームの頭として、2、3時間の短い睡眠だろうが一切の文句を言わず、シャッターを切り続けた。 そして、その瞬間が訪れる。 プロデューサーの坂東は藤井の被写体に対峙 ( たいじ ) する集中力が、より高まっているのを感じていた。被写体といっても漁師ではない。 秀ノ山雷五郎の像である。相撲界で第9代横綱という最高位までのぼり詰めた男であり、気仙沼のスーパーヒーローでもある。その業績を讃えた銅像は、東日本大震災のあの津波にも流されなかった。 藤井は、この像もまた気仙沼の象徴であり、カレンダーの一枚にふさわしいと直感する。 その瞬間、気仙沼の天候が写真家の味方をした。 美しい白色の絵の具を奇跡的な濃度バランスで薄めたような霧。これ以上濃い霧だと力士像が見えないし、逆にこれよりも薄い霧だと味わいも薄い。そんな絶妙な霧の中に身長164センチと江戸時代でも小兵であった秀ノ山雷五郎が、右手をすっと海に向かって伸ばしている。 後日、東京に戻った藤井は、彼の代名詞と称される魔法を施したかのようなプリントにより、会心の一枚に仕上げる。 けれど、その写真は『気仙沼漁師カレンダー2014』に採用されることはなかった。