「震災」や「被災地」から離れた次の10年をーー津波に消えた居酒屋、復活に賭けた名物店主の心意気 #これから私は
「出たー。これを食いにきた!」看板メニューである店主お任せの「さすみ(刺し身)盛り合わせ」が登場すると必ず驚きと喜びの声が上がる。陸前高田の名物居酒屋「公友館・俺っ家(おれっち)」ではよくある光景だ。他にも、わかめのしゃぶしゃぶ、生牡蠣、ほやのさすみなど、地産のメニューを揃える。しかし、そんな活況も10年前の3月に一度途絶えた。大津波で店舗ごと押し流された「俺っ家」。この店のたどった変遷と、陸前高田の復興の軌跡を追った。(取材・文:竹田聡一郎/撮影:殿村誠士/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
名居酒屋を押し流した大津波
「広田湾の海産はよく肥えてるだろ。気仙川から栄養がたっぷり流れてきてミネラルも豊富だ」 こう胸を張るのは、トレードマークのひげをたくわえたマスター・通称「ひげマス」こと、店主の熊谷浩昭さん(61)だ。 熊谷さんは地元の高校を卒業後、都内の水産会社に就職し、渋谷の東急本店地下の鮮魚店で勤務した。 「何をするのかは決まっていなかったけれど、いつかは高田で独立しようというイメージはあった」 渋谷で鮮魚のさばき方をはじめ、各種海鮮の基礎知識を学ぶ一方で出会ったのが「居酒屋」だった。 「東京のサラリーマンは、仕事帰りにみんなで飲みに行くだろ。俺もそれが楽しみだったし、いい店がたくさんあった。『ああ、高田にないのは、これだな』と思って、地元で店を持とうと決めた。それからは早かったな」
当時の陸前高田にあったのはチェーン店のような店ばかり。土地のものを出して地元民の憩いの場となる居酒屋らしい居酒屋を開く。それが目標となる。 東京で2年、鮮魚の知識に加え、市場での仕入れのノウハウ、接客のいろはも学んだ。20歳になった頃に大船渡のスーパー、マイヤから「大規模スーパーをオープンするから手伝ってくれないか」と声がかかり、三陸に戻った。 「今度は地元の市場で名産や漁獲の勉強をして、人間関係も開拓していった」 大船渡や釜石、地元・陸前高田などで新規店の立ち上げに5年ほど携わったのち、仕上げとして大船渡の名店「活魚すごう」で和食の基礎を習得、居酒屋のオープンに備えた。 「顔に似合わずちゃんと計画してたんですね、と常連客に言われたりすることもあるよ。でも、そのときそのときに必要なことをやっていたらつながっていっただけで、計画していたかといえばわがんねえな。俺は『まずやっぺ』で生きてきたから。全部、借金だったから無一文からのスタートだったけれど、なんとかなるだろうとは思っていたな」