「竹下派」から「福田派」支配へ 首相で振り返る平成政治 坂東太郎のよく分かる時事用語
旧福田派系統の繁栄(平成12年~21年)
小渕氏の後継者は森派(旧福田派、清和会)領袖の森喜朗首相。その決定過程で、青木幹雄(小渕派)、村上正邦(村上・亀井派)、野中広務(小渕派)、亀井静香(村上・亀井派)ら有力5氏による密談で決まったのではないかという悪評を最初から抱え込みました。その後も「神の国」発言など失言が際立ち支持率は低迷。任期前倒しで自民党総裁選を行うために2001(平成13)年4月に辞任します。次は橋本元首相の再登板が有力視され「また橋龍か」との声まで挙がるほどでした。 ところが総裁選では森派の小泉純一郎氏が橋本氏を破ってしまう大番狂わせが生じます。しかも以後、約5年もの長期政権を築いてしまうから分からないものです。 皮肉にも小泉政権の特長は、橋本氏が首相時に推進しようとした構造改革と中央省庁再編の活用でした。歳出削減、郵政民営化を筆頭とする「官から民へ」路線、経済財政諮問会議の活用によって財務省主導の予算編成より前に「骨太の方針」を示し、官邸主導を徹底することなど。他方で、総裁選前に森派を離脱。脱派閥を掲げ、従来の派閥順送り人事を止めて独断で組閣しました。もともと「脱竹下派支配」を訴えていた小泉氏ならではの改革で、高い支持を守ったまま勇退したのです。 その小泉政権で自民党幹事長、内閣官房長官と重用されたのが同じ森派の安倍晋三氏。2006(平成18)年9月の総裁選で勝利して首相の座に就きました。ところが閣僚の失言や不祥事が相次ぎ支持率が低迷。特に農林水産相の自殺は政権に暗い影を落としました。さらに「消えた年金問題」による逆風もあり、07年7月の参院選で惨敗を喫し、国会は「ねじれ」状態に陥りました。それでも引き続き政権への意欲を見せていましたが、9月になって突然、辞意を表明。後に難病の潰瘍性大腸炎悪化による体調不良が原因であったと判明するも、当時は「腹痛で政権放り出し」と批判の的となりました。 次も森派の福田康夫氏。福田赳夫元首相の子で生粋の「福田派」プリンスです。ねじれ国会で野党が多数派の参院で比較第1党にまで成長していた民主党率いる小沢代表による硬軟自在の戦法に翻弄されました。07年11月にはその民主党との「大連立構想」が持ち上がったものの、民主党内から強い反発があり頓挫したこともありました。そして前政権に続き1年での退陣へ。辞任会見で「私は自分自身を客観的に見ることはできるんです。あなたと違うんです」と名言?を残して去りました。 4回目の総裁選挑戦で首相になったのが、福田氏の後を受けた麻生太郎氏。系譜的には宏池会である旧池田派の流れにいるものの、少々複雑です。派閥の後継問題で宮沢元首相から派を譲られた加藤紘一氏に対し、それを相容れることができなかった河野洋平氏が派を離れてつくった小グループ(河野グループ)を受け継いでいたから。安倍氏や福田氏の辞め方の印象の悪さから、麻生氏のキャラクターの明るさへの期待も大きかったようです。 「人気者」の麻生氏に対しては、2005年の小泉郵政選挙で大勝して以来の任期を迎える衆議院を解散して勝利する、という党内の期待がかけられていました。しかし連立与党の公明党が期待した「定額給付金支給」が自民党内でさえ反対論がわき起こる一方で、麻生氏が「3年後の消費税引き上げ」をぶち上げ、今度は公明党から猛反発されるなど、与党内にさえ重しが利かず、早期解散を見送ってしまいました。 麻生政権というと、漢字の読み間違いや「ホテルのバーは安い」などのお気楽発言や失言が取りざたされます。しかし本質的には、小泉政権以来の官邸主導がうまくいかずに調整能力が不足し、ガバナンスが利かない状態の中、任期満了に限りなく近い形で解散を打たざるを得なかったのが敗因でしょう。2009(平成21)年8月の総選挙で民主党に308議席(定数480)を取られる圧勝を許して、政権交代。再び自民党は下野の憂き目をみたのです。