「竹下派」から「福田派」支配へ 首相で振り返る平成政治 坂東太郎のよく分かる時事用語
自社さ連立から自公連立へ(平成6年~12年)
自民党の政権復帰のための便法に過ぎなかった社会党出身者の首相には違和感を感じる向きもあったようで、社会党の党勢も衰える一方でした。力不足を痛感したのか、村山氏は翌1996(平成8)年の年明け早々に辞意表明。自民党総裁だった橋本氏(小渕派=旧竹下派)が後継首相に収まります。同年10月、小選挙区比例代表並立制の下で初の総選挙が実施され、自民党は239議席(定数500)と復調。小沢氏が旧非自民連立勢力を結集して乾坤一擲の勝負に出た新進党は156議席と及ばず。社さ両党は見る影もなく惨敗した一方で、96年9月に発足した民主党が52議席と一定の地歩を得たのです。 橋本首相の二枚看板は「行政改革」と「財政再建」。前者の業績として著名なのは中央省庁等改革基本法(1998年成立)です。当時はそれまでの1府21省庁を1府12省庁に再編(実施は2001年1月)する点が大いに話題となりましたが、総理府や経済企画庁の統合による内閣府の新設や、首相補佐官の増員、経済財政諮問会議の設置など、後の「官邸主導」の政治に重要な役割を果たす改革が含まれています。 財政再建については、消費税率の5%へのアップ(1997年4月)や公共事業の縮小などです。ところが1997年11月に都市銀行の北海道拓殖銀行や証券大手の山一証券が相次いで経営破たんするなど金融危機が世を覆いました。再建路線の堅持か減税などの景気回復に舵を切るかで揺れ動いた末、98年夏の参院選で予想外の敗北を喫して辞任したのです。 同じ派閥でその領袖でもある小渕氏が後を継ぎましたが、何しろ衆議院でギリギリ過半数、参院に至っては過半数を20議席以上も割り込むという不安定な状態で、政権発足当初から連立の「相手選び」がうわさされます。この時期、せっかく作った新進党を自ら壊してしまった小沢氏が党首を務める自由党や再結成した公明党などが候補に挙がっていました。自民党は1999(平成11)年1月、旧竹下派の仇敵である小沢氏自由党との連立に踏み切りました。次いで10月には公明党とも連立します。 むろん黙って補完勢力に甘んじる小沢氏ではありません。副大臣・政務官制度の導入など政策を次々と飲ませ、最後には自民・自由両党が解散して新党を作れというとんでもない要求まで突きつけます。そしてまたもや「小沢・反小沢」で大混乱。結局は自由党が連立を解消すると決まった直後、2000(平成12)年4月に小渕氏が病に倒れて翌月急逝してしまいました。