東大生が考える「説明が下手な人」の特徴。「頭が良いと思われたい」願望が裏目に出るワケ
―[貧困東大生・布施川天馬]― みなさんは「頭がいい人」とはどんな人だと思いますか? 巷では「本当に頭のいい人は難しいことをわかりやすく説明してくれる」なんて話をよく聞きます。難解なことを平易に言い換えてくれる技能を持った人を「頭がいい」と感じてしまうのは無理もない。 そのためか、頭がいいとみられたがる人ほど「要するに」とか「つまり」とか、話をまとめる接続詞を使いたがる傾向にあるように見えます。 ですが、むやみやたらと要点をかいつまもうとしても、過ぎたるは猶及ばざるが如し。結局意味がわからなくなってしまうでしょう。 説明が下手な人は、「要点」が理解できていないことが多い。話の背骨の部分だけを抜き出そうとして、全然関係ないところに目を向けてしまう。 それは、話の主題を理解できていないからです。今回は、みなさんが本当に説明が上手な人か、簡単な質問で確かめたいと思います。
『山月記』ってどんな話?
高校で『山月記』という話を習った方は多いのではないでしょうか。「その声は、我が友、李徴子ではないか」「いかにも、私は隴西の李徴である」のやり取りが有名な短編小説です。 さて、みなさんならば「『山月記』ってどんな話?」と聞かれたら、どのように説明するでしょうか? なるべく簡潔な説明を考えてみてください。 ここでもし、「人が虎になってしまう話」と答えた人は要注意です。確かに、同作は、孤立を深めた天才少年の李徴が、夢破れて落ちぶれた後に発狂して、やがて虎になってしまう怪奇を描いていますが、それが話の本質ではないからです。
「目立つ部分」=「要点」ではない
もし私が同じ質問に答えるならば、「自らの怠惰と傲慢さに溺れたかつての天才が、己の半生を振り返って孤立を後悔する話」とするでしょう。 虎になってしまったことは確かに大事件であり、同作の最も特徴的な部分ではありますが、とはいえ、山月記の本質はそこではありません。 かつては若くして虎榜に名を連ねた(科挙に合格した)李徴が、なぜ虎になってしまったのか。それは、詩人を目指すも自らの才能にかまける怠惰と、周囲の凡夫を見下す傲慢さに負けて夢破れ、第二の人生を志して役人になるもプライドの高さから現実を受け入れきれずにストレスが溜まっていき、やがて孤立を深めて発狂したからです。 数ある動物の中でわざわざ「虎」になってしまったのは、自らの爪と牙によって周囲から恐れられ、友の一つもできない孤立した存在であるからでしょう。 「虎になってしまった」のは、「孤立したから」であって、『山月記』とは、「天才が自らの才能に溺れて孤立を深める話」なのです。 そう考えると、同作を「人が虎になってしまう話」とまとめては、あまりに的はずれであるとお分かりいただけるのではないでしょうか。これこそが、「要点をつまめていない要約」の特徴の一つであり、説明が下手な人の特徴なのです。