罪悪感の原因になる「三毒」とは? 禅僧が実践する、マイナス感情を手放す習慣
「三毒」を遠ざけ、懺悔する
もちろん、罪悪感のもとになるような行いや言動を慎むことも、大切です。仏教では、あらゆる煩悩の根本には「三毒」がある、という考え方をします。それを貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)といい、人生において克服するべき心の毒だとします。 貪とは、貪りの心です。なんでも必要以上に欲しがり、一つを手に入れても「もっと、もっと」が止まりません。瞋は怒りです。欲しいものが手に入らない、他人が思い通りにならないときなどに膨れ上がり、ときには人に感情をぶつけることもあります。痴とは、愚かさのことです。常識や道徳を知らず、物事の正しい判断ができない状態、この世界の真理が見えない状態でもあります。 人は皆、三毒にとらわれており、禅の修行は、その克服のためともされます。このとき、三毒にとらわれないよう修行者が実践するべきとされるのが、「六波羅蜜」。すなわち、布施 、持戒、忍辱(にんにく)、精進、禅定(ぜんじょう)、智慧です。 布施は、物や金品を差し出すという意味もありますが、それだけではありません。お釈迦様の教えを説くことを法施(ほうせ)、人の心を癒やすことを無畏施(むいせ)といいます。 持戒は戒律を守ることです。その一例が、不殺生戒(殺してはいけない)、不偸盗戒(ふちゅうとうかい・盗んではいけない)、不邪淫戒(ふじゃいんかい・不道徳な性の交わりをしてはいけない)、不妄語戒(ふもうごかい・嘘をついてはいけない)、不酤酒戒(ふこしゅかい・酒を飲んではいけない)をまとめた「五戒」です。 そして忍辱は、耐え忍ぶこと。精進は、一生懸命努力すること。禅定は精神を一つに集中すること。智慧は、ほか5つの波羅蜜を実践することで身につく世の真理を見極める力です。 ただし、普通に生きていれば、三毒による過ちを積み重ねてしまうのが、人間の定めです。悪気なく口にした言葉が自分の知らないところで人を傷つけることもあれば、ただ歩いているだけで小さな生き物を踏み潰してしまうこともあるでしょう。それは決して避けられないことです。結局のところ、生きている限り罪を犯さない人はいないのです。 それでもなお、私たちは自分のなすべきをなし、生き続けなければならない。罪の意識に、とらわれ続けてはいけない。そのため、過去の過ちを清算する儀式が、仏教にはあります。それを略布薩(りゃくふさつ)といいます。 これは、日々の行いを懺悔し、身も心も清浄にするための法要のこと。僧侶が行う儀式ですが、一般の方も参加できる機会があります。そのとき、必ず唱えるのが懺悔文(さんげもん)という短いお経です。 我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう) 皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち) 従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう) 一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ) (訳) 私が過去に行った過ちはすべて、始めもわからない遠い過去から積み上げてきた貪瞋痴の三毒によるものです。それは身(身体、振る舞い)、口(言葉)、意(心)が行った三業(さんごう)から生まれたものです。今、私はそれらすべてを悔い改めました。 心のなかで悔い改めるというだけなら、わざわざ大げさな儀式などしなくてもよいだろう、と思う方もいるかもしれません。しかし、これは「仏様の前で」やるから意味があるのです。 考えてもみてください。人は生きているうちに、心にさまざまな「鎧」を着込むようになります。会社員として、上司として、部下として、父として、母として、夫として、妻として、先生として、生徒として等々、さまざまな社会的地位や肩書が「こう生きねばならない」という執着を生みます。これでは、心の底から生き方を改めようという気持ちにはなかなかなれません。 ところが、仏様の前で手をあわせていると、自然と心が洗われ、生まれたときそのままの清らかな心が、姿を現すのです。そこで人は嘘はつけません。仏の前での懺悔は本当の懺悔であり、仏の前での誓いは本当の誓いになるのです。とはいえ、一般の方が略布薩に参加できる機会は、そうはないでしょう。 それでも、心配はいりません。大切なのは、自分がしたことを日々省みる習慣を持つことです。 私は、折に触れて懺悔文を唱えることにしています。反省するべき点があれば、必ず改めると誓ってからその日を終える。罪悪感を手放すための、小さな習慣です。 もう一つのアドバイスは、自然のなかに身を置くことです。海を眺め、山を歩き、生き物の気配を身体で感じてみる。その心地よさに身体を預けてみる。自然の雄大さの前では、三毒など取るに足らないものに感じられるでしょう。
枡野俊明(曹洞宗徳雄山建功寺住職)