罪悪感の原因になる「三毒」とは? 禅僧が実践する、マイナス感情を手放す習慣
曹洞宗徳雄山建功寺の住職の枡野俊明さんは、「普通に生きているだけで過ちを積み重ねてしまうのが、人間の定め」だと説きます。自らの過ちに罪悪感を抱いてしまった時、どのように対処したら良いのでしょうか? 書籍『罪悪感の手放し方』より解説します。 他人の幸せが羨ましい...「劣等感で苦しい人生」を抜け出すための言葉 ※本稿は、枡野俊明著『罪悪感の手放し方』(日本能率協会マネジメントセンター)の一部を再編集したものです。
すべて投げ捨てると、うまくいく
大切な人を失い、自責の念を感じている。やめたいのにやめられないことがある。気にしすぎる性格で、ささいな失敗にもクヨクヨしてしまう。ひどいことをした自分が幸せになっていいのか、疑問を感じている。 こうした人たちに共通しているのは、誠実であること、愛情深いこと、責任感が強いこと、周囲によい影響を及ぼそうと願っていること。そのせいで、何事も「自分のせいだ」と感じ、罪悪感を過剰に抱え込んでいます。 罪悪感を覚えるのは、決して、悪いことでも、珍しいことでもありません。しかし、同じようにネガティブな出来事があっても、それを自分のせいとは感じず、平気で暮らしている人もいるのです。変えようもない過去について、いつまでも自分を批判し続けるのは、よい習慣だとはいえません。 むしろ、そんな素晴らしい心を持った方こそ、たまには愛情を自分に向け、自分を許し、重すぎる肩の荷をおろしてほしいと、私は思うのです。 そのためなら、ときに一切を投げうっても構いません。自分がとらわれているものを手放し、自由になった心で、あらためて考えてみてください。 あなたが本当に望む人生とは、どのようなものですか? そのような人生を歩むために、「今」なすべきことはなんですか? 「放下著(ほうげじゃく)」という禅語があります。「すべての思慮分別や、経験なども一切を捨てなさい」という、ずいぶんと思い切った言葉です。こんなエピソードがあります。 ある禅僧が、長い修行の果てに、ついに「悟りを得た」という瞬間がやってきました。「もう自分はすべてを捨て切った。執着心さえも湧いてこない」というのです。そこで師に尋ねました。 「放下著といいますが、私にはもう捨てるものがありません。これ以上、何を捨てればいいのですか」 問われた師は、こう答えました。 「捨て切ったという思いさえも捨てなさい」 この禅問答は、穏やかな心を手に入れるには執着心を手放す必要があることを示しています。これから人生という山の頂を目指すのに、わざわざ重い荷物を背負うことはない。身軽になりなさい、ということです。こうした「何事にもとらわれてはいけない」という教えは、禅の根本にあるものです。 感情もそうです。人間ならば、震えるほどの喜び、怒り、悲しみ、楽しみがあるのは自然なこと。しかし、そうした感情をいつまでも引きずるのは、よくない。特に過去の出来事については、「もう変えようがないんだから、放っておきなさいな」という力の抜けた言い方をします。 過去を振り返るのは構わないのです。しかし、意識を振り向けるのは罪悪感ではなく、「次はどうしよう?」のほうではないでしょうか。このように、行動も考え方も飄々としていて、融通無碍(ゆうずうむげ)なところが、禅の持ち味でもあります。なにしろ、融通無碍という言葉自体、禅からきているのですから。 「放下著」の教えも、決して「過去を無かったことにしろ、忘れろ」と言っているのではありません。むしろ、過去を受け入れつつも、それにとらわれない「今」を生きる大切さを説いているのです。 曹洞宗の開祖・道元禅師も、「放てば手に満てり」、つまり手放した分だけより素晴らしいものが満ちてくる、という言葉を残しました。道元禅師はきっと「手放すことは失うことではない、むしろ手放すことでより自由で豊かな心が得られるのだ」と弟子たちに伝えたかったのでしょう。 ちなみに、「放下著」の教えを体現した人物として、お釈迦様の弟子の一人、アングリマーラがいます。殺人や盗みなど多くの悪事を重ねていたアングリマーラでしたが、あるとき、心を入替えて出家しました。当初は、アングリマーラの改心を誰も信じませんでした。やはり、過去は変えようがないのです。しかし、懸命に修行を続けるアングリマーラの姿はやがて多くの人々に認められ、尊敬される存在となったのです。