「クラスター型」と「ユニット型」 新型コロナから考える人間の交友関係
サイバークラスターの時代
伝統的な社会は、地域や企業や国家の接着度の強いユニット型の集団で構成されていた。しかし近代化とともに、人々が「個人」を単位として集団間を移動するクラスター型社会に移行したと見ることもできる。 そしてインターネットは、このクラスター化をさらに加速し、「現実個人」の動きを「電子個人」の動きに変え、リアルの世界におけるクラスターよりはるかに速く集合と離散を繰り返す「サイバークラスター」の時代をもたらしているともとれる。また稀な現象と思われるが、SNSなどをつうじて「サイバーユニット」が形成される場合もあり、そこに仲間はずれやイジメが生じることもあるという。 しかしながらそれは冒頭で述べたように、人間の接触交友欲求の一部にすぎない。人間とは、メディアやインターネットではカバーできない多面的な感覚で成り立つものだ。何より、好ましい「接触=交友」には、好ましい「場所」が必要なのだ。それがリアルということである。
日常は常に新しい
人が人と会う。人が人と別れる。邂逅と別離、集合と離散、ユニットとクラスター、リアルとサイバー。いずれにしろ、ここからすべての人間ドラマが始まる。そのすべての「接触=交友」の中にこそ「自分」というものがあるのだろう。 つまりこの「コロナ自粛」によって、多くの人の「自分」が変化するのだろう。変化を恐れない方がいい。「新しい日常」とはいい言葉だが、その日常もまた常に更新されるのであり「日常は常に新しい」ともいえる。つまり「無常」だ。そう思えば万葉の時代から、日本人が抱きしめつづけてきた概念ではないか。