新型コロナ問題で見えてきた「集合」に安心する日本人の姿
新型コロナウイルスの感染拡大がとまりません。健康上の不安はもちろんのこと、経済や教育など、さまざまなことへの不安が複合的に絡む問題だけに、社会への影響がいよいよ大きくなってきました。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、「新型ウイルスへの対応が、日本社会の変化すべき方向性を示唆している」と指摘します。若山氏が独自の「文化力学」的な視点から論じます。
観光爆発と新型コロナウイルス
新型コロナウイルスが全世界共通の話題となっている。 第二次世界大戦以後最大の危機ともいわれているが、当時はこれほどメディアが発達していなかったので世界同時に共通の話題ということはなかったに違いない。つまりこの現象には、ウイルスそのものの性質とともに現代のグローバリズムが強く絡み合っている。 金融のグローバリズムについては、特にアジア通貨危機のさい「投資マネーの過剰流動性」が話題となったが、今回の新型コロナウイルスは「人間の過剰流動性」が背景ではないか。 前にこの欄(「江戸から東京へ続く象徴的名所―裏の視点が魅力、浅草・猥雑街の歴史的権威」THE PAGE 2018年5月13日配信)でも書いたことだが、今、世界の観光地の人の多さは限界を越えつつある。僕は若いとき、ヨーロッパの建築をよく見て歩いたが、たとえば古代ローマの遺跡でもまったく自由に歩け、朝や夕方には他に人がいないほどで、調査のレベルで詳細に観察し写真に収めることができた。 今はとてもそんなことはできない。ハイシーズンの観光地は、パリも京都も異常な人混みで、現地生活者が困るほどだ。地球の人口爆発とともに観光爆発が起きている。地球も観光地もこれ以上人が増えるのは無理ではないかと考えていたが、その無理が、温暖化による異常気象とともに新型のウイルスという形で出ているような気がする。 インターネットは、人の移動がなくてもコミュニケーションを取ることができるのが大きなメリットであったが、かえって人間の移動と集合を増幅させたのではないか。同じ観光地情報が同じ場所に人を集めるのだ。人間(特に東アジアの)にはどうも「集合の安心」というものがあるような気がする。日本の年末に見る「紅白歌合戦現象」、すなわちみんなで同じものを見るという現象が世界中で起きている。