神津善行「妻・中村メイコを大晦日に見送って1年。茅ヶ崎での出来事は、今も謎のまま」
◆義父に代わって保護者役に それからしばらくたって、徐々に二人の距離が縮まっていき、結婚することに。彼女が23歳、僕が25歳の時です。仲人は徳川夢声さんにお願いしました。 結婚する前に、向こうの両親からこう言われました。 メイコは一人っ子で、東京にまったく親類もいない。将来お墓を託せるのはあなたしかいないから、養子に来てくれるか、と。でもわが家も、二人の兄は特攻隊として出征して戦死し、男子で生き残ったのは僕だけだったので、養子の話はお断りしました。 親父さんは、こうも言いました。娘は小学校もろくに行っていないし、教育は全部、自分がした。たとえば偉い政治家と対談する時は、何を質問したらいいかを考えて資料を用意するのも自分だった。「結婚したら、それを君がやってくれないと、メイコは困るよ」。 彼女は、自分の父親が作ってくれた中村メイコ像を一生懸命守ろうとしていたようでした。そして僕も、それに協力したつもりです。何かにつけ「これ、どういうこと?」とよく聞かれ、僕なりに説明するようにしていました。本当に何から何まで頼ってくれ、その素直さが、とてもかわいかったんです。 それにしても、本当にすごい人だと思います。子役から始めて、時の総理大臣の田中角栄さんとテレビで互角に話したりしていたんですから。そして人間的にすごく優しいんです。 地方ロケの場合を除いて、どんなに仕事が忙しくても、夜は家に戻って夕食を作っていました。そのエネルギーには頭が下がります。 ただ、忙しいと手を抜かざるをえないので、鮭の塩焼き1切れでご飯3杯食べてくれ、みたいな時もありましたけどね(笑)。だからキムチを常備して、こっそり出してきて食べたりしていました。
娘たちのお弁当も、張り切って作っていましたよ。ただ、ちょっと感覚がずれているというか(笑)。長女のカンナはお茶漬けが好きなので、魔法瓶にお茶漬け用のお茶を入れて、ご飯に鮭をのせて、お茶漬けにして食べろとか――。学校で浮いていたみたいです。(笑) とにかく娘が大好きで、比較的家で仕事をすることも多くなっていた僕に娘を取られたくないという気持ちもあったのでしょう。娘たちに対しては、本当に一生懸命でしたね。 今の時代では許されないでしょうけれど、娘たちが高校生の頃から、娘の友だちも連れて飲みに行ったり。そんな豪快な面もありました。 亡くなる2年前に大腿骨を骨折してからは、ますます僕を頼るようになっていって。お互い高齢になったので、どちらが先に死ぬか、といった話題もよく出ましたが、「私は何もできないから、あなたが先に逝っちゃうと困る。1日でもいいから後で死んでね」とよく言っていました。 それでいて、「あの世に行って一人でポチポチ歩いていっても、どっちに向かっていけばいいのか、どこで何を聞けばいいのかもさっぱりわからないから、どうなっているのか調べてきて」なんてことも言う。調べてきてと言われても、困るんだけどねぇ。(笑) だから「誰か見つけて『困ってるんです』と言ったら、きっと一緒に行ってくれるよ。僕もすぐ行くから、心配ないよ」などと、なだめていました。 そんなこともあったので、お別れの会の時も、思わず「メイコさんがこれから天国に無事に着けるか心配だ」とお別れのメッセージを述べたわけです。
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