島崎今日子「富岡多惠子の革命」【1】富岡多惠子、逝く
戦後の日本文学史に決定的な影響を与えた詩人であり、作家であり、評論家であった富岡多惠子。五十四年を連れ添った夫・菅木志雄をはじめ、さまざまな証言者への取材をもとに、八十七年の生涯を辿る。 * * * * * * * ◆富士山が見える伊東のスーパー 五月の伊豆高原は汗ばむ陽気だというのに、白いマツダボンゴの運転席から降りてきた菅木志雄(すが・きしお)は、ウールのシャツの上にニットのベストを着けていた。それは編物が好きだった富岡多惠子がもう何年も前に夫のために編んだ一枚で、胸のあたりのほつれた箇所を、菅自身が妻の書斎に転がっていた毛糸で繕ったものだった。そこが特別な模様に見えるのは、彼が八十歳になってなお現代美術の第一線に立つアーティストだからという、こちらの思い込みかもしれない。 この日、菅は伊東駅まで車で迎えに来てくれていた。夫婦で通ったスーパーや食堂に案内してもらうことになっている。 車高の高いバンの助手席に乗り込むのには、「よっこらしょ」のひとことが必要だった。亡くなる数年前から脚が弱って車椅子を必要とした富岡が座席に座るのは、大変だったろう。そう訊ねてみた。 「僕が、たんこちゃんを抱えて乗せていたんですよ。でも、それがよかった。夫婦でも触れあうなんてことは何年もないもので、買物やドライブに連れ出すと、そういう機会には触れあえたんだからね」 最初に菅にインタビューしたのは、富岡多惠子が八十七歳で亡くなって二カ月ほど過ぎた二〇二三年の六月だった。そのとき、妻を「富岡」と呼んだ菅は取材を重ねるうちに、「多惠子さん」「多惠子ちゃん」と呼ぶようになり、時に「たんこちゃん」とふたりだけの愛称も口にするようになっていた。 伊東駅から五分ほど走ったところにある総合スーパー「アピタ伊東店」が、富岡が贔屓にした店だった。富岡・菅夫妻が東京から伊東の地に移り住んだ一九八九年の数年後にオープンして、平日は伊東に暮らす六十代から七十代の客が中心で、土日となると子どもを連れたファミリー層で賑わう。 スーパーの最上階にある駐車場からは、富士山が見えた。二十四歳の菅が「転がり込んだ」という富岡が暮らしていた世田谷のマンションの屋上からも、高層マンションなど建っていなかったあのころなら富士山が見えていた。その名も「富士見ゲート」から店内に入ると、菅は妻が使っていた布のトートバッグを片手にエスカレーターで一階の食料品売場に降りていく。 「他にもスーパーはあるけれど、ここに来ることが多かったですね。毎日来るときもあったし、週に二度とか三度とか来るときもありました。彼女は、ご飯を作るのが本当に好きなひとだったからねえ。最後のほうは僕が作っていたんだけれどね」 広い売場をまわりながら夕飯のためにとプチトマトとブロッコリーとハマチの切り身を買ったあと、菅は車を下田に向かって走らせた。アップダウンとカーブの多い一三五号線でもスピードを緩めることがない。 「伊東に来たとき、多惠子さんは鬱になってしまったんです。家から出なくなるのは心配だったので、それからは彼女を車に乗せて伊東市内を回ったり、三島神社に行ったり、海岸沿いに一軒だけ見つけた刺身や天丼の美味い食堂に行ったり。毎日違った風景を見せるのが、僕が彼女と一緒にいられる時間だった。今思えば、本当にふたりだけのいい時間だったと思います」