【89歳の美容家・小林照子さんの人生、そして贈る言葉⑧】29歳で出産。仕事と子育ての両立で気づいたこと。「よくない出来事は軌道修正の合図?」
そしてその2年後の1964年、29歳で女の子を出産。夫の名から一文字「浩」をとって「浩美(ひろみ)」と名づけた。 「夫はお人好しでとても優しかったのですが、私が仕事を続けることには反対でした。 『いつ辞めるんだ!』が口癖。それでも私は辞める気はまったくなく、子育ても家事もほとんど一人で背負いました。 当時の会社にとって、子育て中の女性の社員は私が初めてです。『やはり子どもがいる女性は使い物にならない』と思われたくない、仕事仲間に迷惑をかけたくないという一心で、仕事は100%こなしました。 子育ても、まずは子どもの健康と命を守ることが第一。さらに、寂しい思いをさせないように、家にいるときは短い時間でも絵本を読んだり、話を聞いてあげたり、抱き締めたりと100%の愛情を注ぎました」
しかし、一日の時間は限られている。 「外せないものに優先順位をつけてやりくりしました。 その結果、多少部屋が散らかっていても、洗濯物がたまっていても死にはしないと判断。掃除や洗濯などの家事、子どもが寝てからの仕事は手抜きをすることにしました。 ようやく見つけて引っ越しまでした保育園も、終わるのが18時なので、そのあとの時間に浩美を預かってくれる場所が必要です。友人や知人などを数人確保して、毎日、今日は誰に預けるかをやりくりしていました。まさに綱渡りの育児です! 浩美が初めてしゃべった意味のある言葉が、『どこへあずけようか』という私の口癖だったほどです(笑)」
悪いことが起きるときは、方向転換を考えるタイミング!
「仕事と育児で200%の力を注いで約1年。浩美が1歳になる直前のことです。私は仕事で香港に1カ月の出張に出ることになりました。もちろん、夫をはじめ、まわりの人は大反対です。 香港に支社を作るプロジェクトに、現地でスタッフを教育する任務だったのです。それができるのは私しかいないと思いました。 その頃には、夫も育児を少しは手伝ってくれるようになっていましたが、1カ月も夫一人では厳しいだろうということ、浩美が不安に思わないようにと、実母に預けることにしました。そのために、我が家の近くに一軒家を借りて実母に住んでもらい、浩美を日中預かってもらうよう準備万端整えました。実は、実母とは私が上京して以降、交流していたのです。 最後まで周囲の猛反対を受けながらの香港出張。いざ出発の日、空港に向かう途中で私たちは大事故に遭いました。夫が運転する車にトラックが突っ込んできたのです。車は大破し、私と浩美はなんとか無事だったのですが、夫と同乗していた実妹が瀕死の重傷を負いました。 夫と実妹は別々の病院に運ばれ、ちょうどその頃養父も入院していたので、今日は夫が危篤、明日は実妹が危篤といった状況で、3つの病院を駆け回る日々を送りました。人生でこれほどつらいときはありませんでした」 この事故で、結果的に会社に大きな迷惑をかけてしまったと小林さん。 「それまで私にとって仕事は、メイクアップアーティストとしてのキャリアとしか思っていなかったのですが、組織のありがたさを痛感し、今後は会社のために全力を尽くそうと決意しました。 これを契機に悟ったことがあります。『悪いことが起こるときは、自分の行いや人生を見直す時期なのだ』と。それまで『この仕事は私でないとできない』と思っていたことでも、『チームワーク』を第一に考えるようになりました。 子育てのほうはというと…、相変わらず綱渡りの育児を続け、浩美が小学校に上がる頃には“鍵っ子”の状態でした。私は家で彼女の帰りを出迎えることができませんでしたが、それでも冷蔵庫に 『お帰り~! 今日のおやつは〇〇です』という紙を、毎朝の出勤前に貼ることを欠かしませんでした。 浩美がまだ低学年の頃は、一人の時間が長くなりそうなときにシッターさんを手配することがありました。そんなときも、必ず『お帰り~』という言葉だけはかけてほしいとお願いしました。どんな形でも、『お帰り~』で出迎えることは私の小さなこだわりでした」