<黄泉(よみ)>と<闇(やみ)>の深い関係とは?宗教学者が説く「日本神話の死後の世界」が曖昧で素朴すぎるワケ
「死んだらどうなるのか」「天国はあるのか」。古来から私たちは、死や来世、不老長寿を語りついできました。謎に迫る大きな鍵になるのが「宗教」です。日本やギリシアの神話、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教から、仏教、ヒンドゥー教、そして儒教、神道まで。死をめぐる諸宗教の神話・教え・思想を歴史的に通覧した、宗教学者・中村圭志氏が綴る『死とは何かーー宗教が挑んできた人生最後の謎』より一部を抜粋して紹介します。 【書影】「死んだらどうなる?」「来世はあるのか?」「不老長寿?」古来からの尽きせぬ〈不可解〉を宗教哲学者・中村圭志氏が綴る『死とは何か-宗教が挑んできた人生最後の謎』 * * * * * * * ◆はっきりしない来世「日本神話の黄泉と常世」 『古事記』や『日本書紀』で知られる日本の古代世界は、古代といってもかなり遅いもので、 紀元前はるか昔に都市化を果たしたユーラシアの諸文明と比べるとずいぶん遅れており、ほとんど中世と言っていい新しさである。 なにせ日本列島はユーラシアの東外れの孤島である。 長い間ずっと辺境であり続けたので、おかげでギリシア神話や旧約神話と比べられるほどの古い神話的モチーフが、八世紀になっても残っていたわけだ。 少なくとも、仏教、キリスト 教などの古典的宗教の倫理的で観念的な来世観に染まっていない原初の素朴な思考を残して いると見られるのである。
◆黄泉、常世、根の国「曖昧なる死者の空間」 日本神話の死後の世界は一つに絞られていない。『古事記』の語る黄泉には墳墓の内部のような感じがある。 常世はどこか遠くにあるものらしい。根の国は地下とも地上とも遠方とも海の底ともつかない感じだ。 『万葉集』などでは山中の他界のイメージも語られている。『万葉集』ではさらに、死んだ皇族は高天原に行くという取り決めが見られる。 ただし、天の岩戸に隠れることを死の隠喩としている歌もある(199番歌)。天駆ける霊魂の イメージと埋葬される遺骸のイメージが合体したものであろうか。 地下、遠方、海底、山中、天空の岩屋と、空間的にはばらばらである。強いて共通点を挙げるとすれば、「日常世界とは異なる遠くのどこか」ということだ。 たぶん古代人も、それ以上はよく分からなかったのだろう。 こうした「よく分からない」感は、『万葉集』第二巻にある柿本人麻呂の挽歌、「秋山の黄葉(もみち)を茂み惑ひぬる妹(いも)を求めむ山道(やまぢ)知らずも」(208番歌)にも表われている。 「秋山のもみじの木々が茂っている中に、もみじの魔 力に惑わされて迷い込んでしまった妻。逢いに行こうと思っても、私はその山道を知らないのだ。他界へはどうやって行くのか、見当もつかない」というほどの内容である。 この歌は(おそらく)歌垣で出遭った忍び妻(愛人)の死について歌った長歌に付属する反歌で、「山道」は他界(死後の世界)を意味する象徴として引き出されている。 実際に山に行った話をしているのではない。
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