<黄泉(よみ)>と<闇(やみ)>の深い関係とは?宗教学者が説く「日本神話の死後の世界」が曖昧で素朴すぎるワケ
◆黄泉と死体の恐怖・穢れ 『古事記』などの描く黄泉(よみ)あるいは黄泉国(よもつくに)の神話は、来世空間を描写するというよりも、「死者は朽ちる」という点を強調するものだ。 「黄泉(こうせん)」なるものは古代中国人が考えた比較的浅い地下世界のことで黄土が地下水に混じって出てくるような感じだろうか、墳墓の内部のような地中空間である。 日本ではこれを「よみ」と訓じたわけだが、この日本語は「やみ(闇)」と関係があると言われる。 イザナキとイザナミは原初の男女神として国土やさまざまな神々を産んだ。直接産んだのは女神であるイザナミだ。 彼女は最後に産んだ火の神のせいで陰(ほと)を焼かれて死んでしまった。以下、『古事記』に沿って記述していこう。 愛する妻の死に遭遇して、イザナキはたいそう嘆いた。彼は最愛の妻を出雲(いずも)と伯耆(ほうき)の国境にある比婆山(ひばやま)に葬った。
◆イザナキが目にした死者イザナミの姿とは イザナキは妻にもう一度逢いたいと思い、黄泉の国を訪問する。この黄泉の地理的位置であるが、地下ならどこでもいいのか、大地のどこかから特別につながっているのかは分からない。 イザナキが地下に潜っていったとはどこにも書いていないという指摘もあるが、わざわざ「黄泉」の字を当てているのだから、空間的イメージとしてはたぶんやっぱり地下なのだろう。 イザナキはそこへどうにかしてたどり着く。さて、そこでイザナキが目にした死者イザナミの姿とはどのようなものであったか。 ここには二重のビジョンがある。第一のビジョンはイザナミを霊界で何らかの形で生きている存在(霊魂)として描いている。第二のビジョンはイザナミを腐乱死体として描いている。 第一のビジョンを建前とする大枠の物語は次のように語る。イザナミは黄泉の御殿から現われる。 イザナキは、一緒に帰って国造りを完成させようと言う。イザナミは逡巡する。死者の国の食べ物を食べてしまったのでもう戻れないのだ。 イザナミは黄泉の支配者らしき神に相談すると言って御殿の中に入り、私を見ようとしてはいけないと言う。この黄泉の神が何者かは分からない。 さて、イザナミは御殿に入ったきり、待てど暮らせど出て来ないので、イザナキは自分の髪に差した櫛の歯を一本取って火をつけ、灯とし、御殿の内部を覗いた。 するとそこにあったのは死者の恐ろしい姿であった。第二のビジョンとしての、死体の描写である。物質的崩壊としての死の本質を直視するものだ。
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