ラクダをめぐる冒険~リヤド(後編)【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】
連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第73話 このコラムの公開を準備していた2024年10月、パキスタンから初めてのMERS(中東呼吸器症候群)死亡例が報告された。その詳細はまだ明らかとなっていないが、大切なのは国際的な連携である。しかし、それは一筋縄ではいかない......。 【写真】ラクダのレバー * * * ■パンデミックになる「前」のサイエンスの難しさ 「灼熱の国」と覚悟をしていたのだが、日中でもさほど気温は上がらない。むしろ朝夕は結構冷えて、かなり涼しかった。 夜の18時、そして朝5時に、バスの効いた重低音のお祈りの音楽とも呪文とも形容できない音が響き渡る。調べてみると、1日に5回ある、「アザーン」というお祈りの時間を知らせるためのものだった。正午になり、「アザーン」が聞こえ始めると、おもむろに絨毯(じゅうたん)を敷いて、靴を脱いでその上に座り、おそらくはメッカの方角を向いてお祈りする人たちの姿をちらほらと見かけた。 MERSについては、50話や中編でも紹介したが、MERSとは「中東呼吸器症候群(Middle East respiratory syndrome)」の略であり、MERSコロナウイルスの感染によって引き起こされる感染症である。MERSは、2012年に見つかった比較的新しいコロナウイルス感染症で、その名の通り、サウジアラビアなどの中東の国々で散発している。 ラクダが中間宿主、あるいは自然宿主と考えられていて、それが時折ヒトに「スピルオーバー(異種間伝播)」しては、散発的な流行を繰り返している。報告にもよるが、MERSの致死率は30%を超えるともいわれており、非常におそろしい感染症である。しかしその流行は、基本的に中東の国々にかぎられている。 ――と、これが私の知りうる事前の知識だったのだが、今回の会議でいろいろなことを知ることができた。まず、MERSコロナウイルスは、ケニアなどの北東アフリカでも見つかっていて、これはアラビア半島で流行しているものとはどうも異なる系統のものらしいこと。また、新型コロナパンデミックの影響で、2021年から現在まで、MERSの流行状況がほとんど調べられていないこと。 そして、ほぼすべてのラクダが(すくなくともサウジアラビアでは)、MERSコロナウイルスに対する抗体を持っている、ということ。つまり、MERSコロナウイルスは、ラクダの集団の中では常態的に流行を繰り返している、ということになる。 そして今回、肌感覚で知ることができたのは、開発途上国での「サーベイランス(感染症の調査)」の難しさである。日本や欧米諸国であれば、新型コロナのときのように、システムさえ構築できれば詳細なサーベイランスが可能である。しかし開発途上国の場合、それを実現するための費用も、インフラもない。また、その大切さを理解している研究者や医療従事者もごく一部なので、必要な技術や知識の指導も困難である。 そのため、危ない病原体が出現したとしても、その流行状況や罹患率などを把握することができない。さらに、MERSコロナウイルスのように、ラクダのような家畜がサーベイランスの対象となる場合には、獣医師との連携も必要になる。 それでどういう状況になるかというと、どうしてもその研究に着手したい先進国の研究者が、研究費を獲得し、現地の研究者や医療従事者たちと交流を持ち、サーベイランスの体制を独自に整備していく、ということになる。 先進国と開発途上国がうまく連携・交流するのもまた一難である。この「交流」もなかなかセンシティブなところで、先進国が開発途上国から「必要な検体だけもらってあとはバイバイ」という関係性は、「アカデミア(研究業界)」ではご法度とされている。科学雑誌の中には、そのようにして入手した検体を使用した研究ではない、ということを明示するための署名を求めるところもあるくらいである。 国によっては、自国の生物資源を国外に出すハードルをめちゃくちゃ高く設定してるところもあったり、書類手続きに数年を要することもあったり、いわゆる「袖の下」が必要なこともあったりするという。とにかく、開発途上国からの検体の入手は、一筋縄ではいかないのである。