下積みゼロから瞬く間にスターダムへ。一転、借金22億円を抱えても折れない山田邦子が見たお笑いの世界
だが、お笑いブームの到来とともに、自分たちの地位がだんだんと向上していくのを感じた。1980年にフジテレビでスタートした漫才番組が若者を明確なターゲットに据え、人気と数字を獲得。お笑いブームに一気に火がついた。 「フジテレビの『THE MANZAI』からじゃないかしらね、街中でキャーッて言われるようになったのは。お笑いを見たいという人がどんどん増えて、私はちゃっかりその波に乗ったんです」 お笑いブームはお茶の間に、お笑いとお笑い芸人を根づかせ、それはやがて『俺たちひょうきん族』などのお化け番組の誕生へとつながっていった。 「一番お世話になったのは同じ事務所だった(ビート)たけしさんですかね。よく見ると、変な顔してんですよ(笑)。だけど、何とも格好良く見えちゃう、ずるいよね。そして常に私たちの先を行っちゃう。さんまさんはもうハンサムで優しいからみんな好きでしたよ。タモリさんには行きつけのバーが同じで、酔っ払っておんぶしてもらったことあります。みんな普段から優しかったな」 3人といると、山田はいつも楽しかった。おしゃべりな山田も、彼らといるときは聞き役に徹した。あの頃はとにかく毎日が楽しかった記憶しかないと笑う。 「ディズニーランドもない時代だったけど、きっと自分たちがディズニーランドだったのよね」 3人と会う機会はほとんどなくなったが、世界の北野とは今でも手紙での交流が続いているという。
22億円の借金とその返済
山田が最も輝きを放っていたのは20代から30代にかけてだろう。各局で冠番組を持ち、多くのテレビ局には専用の仮眠室もあったとか。 「当時はお給料の手渡し時代。事務所で1億円ぐらい入った紙袋をもらって、そのまま街に飲みにいってましたね」 収入には恵まれていたはずの山田だが、意外にも「借金」に苦しめられたという。 「29歳ぐらいのときに、家族が節税対策で子会社をつくったのよ。その会社で不動産やらを始めたの。そうすると、私がいくら稼いでも、すぐに投資に回されちゃう。だから、働いていても全然楽しくないの。借金ができて、私ががむしゃらに働く。返済すると、さらに大きな借金をする。いつも『お金がない』と言われ続けるのが本当に苦しくてね」 周囲の人たちが幸せになるならと歯を食いしばって仕事を続けた山田だったが、精神は限界を迎えつつあった。借金をぜんぶ返して楽になりたいと懇願して会社を解散。最終的に2年かけて返済した借入金は22億円にのぼったという。 「ときどき思うの。あのとき、どれだけつらくても周囲の人たちのアドバイスを聞いていれば、大企業になっていたかもしれない。きっと私は小さな人間なんでしょうね。でも、こうなってよかったと思ってます。今は働くことが気持ちいいですよ。これだけ働いたからこれが買えたんだという達成感が、やりがいにつながっています」 若い頃は勢いや楽しさだけで働けた。年を重ねたいま、人間は何のために働いているのかと考えることも多い。 「若いうちはやりがいも大事だけど、やはり労働の先に何があるかしっかり考えないと。賃金はとても大事ですよね。働いた分だけもらいなさいって若い人には言ってます」