「貧乏から這い上がってきたオレにはサッカーしかなかった」ーー“ドラゴン”久保竜彦とW杯
広島で一緒にサッカーをやっていた先輩と、親しくしていた知人夫婦が来てくれて、しこたま飲んだのに全然酔っぱらえなかった。1人だったら、どうなっていたのか……。先輩からは、『あのときのタツはいつもと違った』なんて言われます。普段は先に寝てしまう嫁もその日は最後まで付き合ってくれて」 悔しさを必死に紛らわせた夜。久保には、もう1つ忘れられない光景が残っている。飲みながら見ていたテレビに、涙を流した自分の母の姿が映し出されたのだ。 「メンバー発表の(悲喜こもごもを伝える)ニュース映像に、かあちゃんが高校の監督と一緒に出ていたんです。子どもの頃は『何しとんや』って怒られてばかりだったかあちゃんが泣いていた姿は、いまも脳裏に焼き付いている。プロになってからサッカーの話なんて一切したことがなかったし、あの強かったかあちゃんが泣いてるって。かあちゃんも悔しかったんかな。もう泣かせるようなことしちゃいかんと思いましたね」
貧乏から這い上がってきたオレにはサッカーしかなかった
小4でサッカーを始めた久保は、アルゼンチンの英雄ディエゴ・マラドーナに憧れ、夢中でボールを蹴った。部屋中にマラドーナのポスターを張り、マラドーナの載った雑誌をかき集めたが、86年W杯当時、決して裕福な家庭ではなかった久保家にはまだビデオデッキがなかった。そこで、久保はクラスメートに録画してもらったビデオを見ては、左足のキック練習に励んでいた。 「マラドーナの何が好きかといえば、心臓の鼓動のように“ドクッ、ドクッ!”というリズムを刻みながら進むあのドリブル。メッシは‟チョロQ”みたいでちょっと違うというか。だからビデオデッキがない頃は、伝説の5人抜きの『マラドーナ、マラドーナッ、マラドーナアッ!』っていうあのテレビ実況を録音機に録音して、寝る前に聞いていましたからね」 マラドーナに憧れていた久保にとってW杯は夢であり、原点だった。そんなW杯出場を目前で逃した男は、それをどう乗り越えてきたのか。 「乗り越えるも何も、すぐにマリノスの練習がありましたからね。嫁も子どももおったし、マリノスでもポジションを失うわけにはいかないし、そのときは夢よりも現実しかなかったです。貧乏から這い上がってきたオレにはサッカーしかなかった。夢を見れるのは親に安心して食わせてもらっているときだけじゃないですか。 落選を聞いたとき、マリノスの岡田監督から1日だけ休みをもらいました。ただ、1日目は朝まで飲んでいたし、その後も寝れんくて昼も飲んでいた。やっと寝れたのが、次の日の朝で『もう1日だけ休みをください』とお願いして、それで終わりですよ」