新潟地震と東日本大震災、大きな地震を2度体験。津波の破壊力は凄まじく、潮まじりの臭いとモノクロの風景が忘れられない
地震や台風、豪雨などの思わぬ災害で、当たり前の日常を奪われたら――。内閣府が発表した「令和6年版防災白書」によると、自然災害による死者・行方不明者数は、令和4年に159人、5年は35人、6年は能登半島地震ですでに244人。今も誰かの日常が失われています。しかし、たとえ元どおりにならなくても明日はやってくる。相川元美さん(仮名・岩手県・農業・68歳)は人生で二度、大きな地震を体験して―― * * * * * * * ◆新潟地震は小学校で。岩手では車中で被災 私は二度、大きな地震を体験しました。一度目は忘れもしない1964年6月16日の新潟地震。その揺れが起こったのは小学校の昼休みの時間でした。ほとんどの生徒は校庭で遊び、私はまだ給食と格闘していたため教室にいたのです。 突然の揺れに、教室の水槽から金魚が次々と飛び出すのを呆然と見ていましたが、「校舎の外に出ろ!」という大声に押されて、出口へ駆け出しました。 ところが目の前の地面に裂け目ができていて、大きく開いたり閉じたりを繰り返しているのです。立ち尽くしていると、「閉じた時に飛んで!」と、外から先生が叫んでいます。思い切って飛び、逃げ込んだ校庭では、水道管が割れ、噴水のようにあちこちから水が上がっているではありませんか! その間を縫って学校から避難所まで、2キロほどの距離を学校のみんなと泣きながら必死で走りました。避難所で家族が迎えに来るのを待った、あの心細さは忘れられません。 当時は防災訓練もしたことがなく、はじめて地震の恐ろしさが身に染みたのです。
それから約50年後の2011年3月11日、東日本大震災という大きな地震に遭いました。あの日、私は1人で車を運転している最中でした。隣の市に住む高齢の姑と4月から同居をするために、当面の荷物を車に積んで山里の家に向かっていたのです。 山に入る最後の交差点、赤信号で停車した直後に地震は起きました。日頃、小さい揺れでもキャーッと怯える私が、あまりの揺れの大きさに声も出ず、ただ車内でじっと耐えるばかり。周囲の電線は縄飛びのように大きく上下に弾み、地面にしゃがみ込んでいる人が見えました。 長い揺れが収まった後、私は必死に運転を再開。約20分後に着くと、心配した夫と姑が外に出ていました。ほっとして携帯電話を確認すると、親戚や県外の知人から何件ものメールが。「怖かったけれど、大丈夫」と簡単に返信したものの、その時はまだ甚大な被害の状況を知らなかったのです。 その後も余震は収まりませんでした。家の玄関の塗装にはひび割れができ、中に入るのが躊躇われて車中でしばらく過ごすことに。ラジオでは女性アナウンサーが「沿岸部は壊滅的な被害」と繰り返し絶叫していて、不安が膨らんでいきます。仙台に住む子どもとは連絡がつかず、無事かどうか心配でたまりませんでした。 やがて外が真っ暗になり家に入りましたが、電気が使えず、懐中電灯とろうそくを集めました。着込めるだけ着て布団をかぶっても、寒くて震えが止まりません。早く夜が明けることだけを祈り続けていました。今思えば、あの震えは怖さからくるものだったのだと思います。
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