削除部分を復活させた完全版、現実を古典を通じて見据えることの重要さ―リチャード・ライト『地下で生きた男』鴻巣友季子による書評
リチャード・ライトは米国で一九四〇年代を代表する黒人作家だ。過って裕福な白人の娘を殺めてしまった貧しい黒人青年の逃亡と裁判のゆくえを追った代表作『ネイティヴ・サン』は「ブラックパワー」という語を生みだした。 抗議文学としてのメッセージ性が強く青年の人間性が描けていないという批判ものちに受けた。しかし同作から八十年後、「地下で生きた男」が米国で出版されると、評価が変わったという。主人公は既婚の敬虔な黒人男性で、もうすぐ生まれる子どもがいる。しかし殺人の濡れ衣で逮捕され、凄絶(せいぜつ)な拷問を受けて自白。彼は脱出に成功し、地下に潜りこんで新たな人生を送ることになる。 この長編は、一度は削除された部分を復活させた完全版になる。なにが削除されていたのかと言えば、この拷問の部分だ。コロナ禍での人種差別的暴力の悪化や、警察による黒人市民への傷害致死等が問題視されるなか、そうした現実を古典を通じて見据えることの重要さに気づいたのだろう。 前作と比してシュールレアルなタッチが強く、実験性にも富む作品である。中短編も併録。 [書き手] 鴻巣 友季子 翻訳家。訳書にエミリー・ブロンテ『嵐が丘』、マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ1-5巻』(以上新潮文庫)、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』(河出書房新社 世界文学全集2-1)、J.M.クッツェー『恥辱』(ハヤカワepi文庫)、『イエスの幼子時代』『遅い男』、マーガレット・アトウッド『昏き目の暗殺者』『誓願』(以上早川書房)『獄中シェイクスピア劇団』(集英社)、T.H.クック『緋色の記憶』(文春文庫)、ほか多数。文芸評論家、エッセイストとしても活躍し、『カーヴの隅の本棚』(文藝春秋)『熟成する物語たち』(新潮社)『明治大正 翻訳ワンダーランド』(新潮新書)『本の森 翻訳の泉』(作品社)『本の寄り道』(河出書房新社)『全身翻訳家』(ちくま文庫)『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくまプリマー新書)『孕むことば』(中公文庫)『翻訳問答』シリーズ(左右社)、『謎とき『風と共に去りぬ』: 矛盾と葛藤にみちた世界文学』(新潮社)など、多数の著書がある。 [書籍情報]『地下で生きた男』 著者:リチャード・ライト / 翻訳:上岡 伸雄 / 出版社:作品社 / 発売日:2024年02月28日 / ISBN:4867930199 毎日新聞 2024年4月27日掲載
鴻巣 友季子
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