好きな作家の文庫は「何色」?町の本屋さんに並ぶ「背表紙」が私たちに教えてくれること
新しい「読後の色」?
さてさて、それではツヴェターエワの「赤い装丁」の本には、なにが書いてあったのだろう── 吊り燭台の 火がゆらぐ…… おうちで本を 読むっていいな グリーグやシューマンやキュイの音色 トム・ソーヤーの 運命を知る どうやらこれは、マーク・トウェインの本のようだ。続く詩連には、同じくトウェインの『王子と乞食』も登場する。読み進めるうちに、グリーグ、シューマン、キュイといった音楽を味わうように、物語の流れを感じていく。 本の中身に夢中になるほどに、ページが消え、装丁が消え、本が消えていく気がする。本は本という「物質」であることをやめて、なかに描かれた世界そのものだけがたちあがる。確かにそれは、音楽に耳を澄ませるときに似ている。自分の主体性が溶けるように薄れて、なかの世界を漫遊する。 本が本に戻るのは、最後まで読み終えて、奥付までページをめくり終え、閉じたあとだ。机の上(私は寝転がって読むのでたいてい布団の上だけど)にぽんと置いた本は、ふたたび装丁の色や重みを持った「物質」に返っている。 そうして読み終えた本は読む前の本と比べて、明らかに見えかたが変わる。本棚に戻しても、背表紙の色の意味が違う──トルストイの地味な灰色はまぶしい知性の色に見えるし、ヘッセの淡い背色には若木の萌芽のようなもどかしさと憧れが宿る。 読んだ本の背表紙には、新しい「読後の色」が加わるのだ。海外文学作品はすべてベージュに赤帯という単調な岩波文庫の背も、作家や作品によって独特の色を放っている。好きな本、わくわくした本は、色が変わるどころか、自ら光り輝いて自己主張をしている。 こうなってくると、本屋さんで背表紙を眺めるのはぐんと楽しくなる。棚にぴっちり並ぶ本のところどころに、背の数文字だけで私に語りかけてくる本がある。
本とのいろいろな出会い方
子供のころはなんとなく、世のなかの大人たちはそれらの本の中身が発する色が、すべて見えているのではないかと買いかぶっていた。子供の私には、背を見ただけで嬉しくなる本はまだほんの何冊かしかないけれど、大人になるころにはきっと、ちいさな本屋さんにあるぶんの本くらいならほとんど読んでしまって、あっちの本もこっちの本も背で語りかけてくれるようになっているに違いないと。 その予想は、半分は当たって半分ははずれた。大人になってみると、確かに「読んだ本」は増えていて、内容を覚えている本を見かけると懐かしい気持ちになる。でも、読んでいない本はあいかわらずたくさんあるし、あのころはなかった本も増えている(この「本が増える」ということに、子供の私は思い至らなかったらしい)。 それから、読んだ覚えはあるのに内容をほとんど思いだせない本もあって、まるでかつて親しかったはずの友達の名前を忘れてしまったような、不義理なことをしている気分になる。気になってひらいてみることもあるけれど、だいたいはそのとき本屋にきた目先の用事のほうを優先させ、後ろめたい感覚を頭の片隅に追いやって、「またいつか読むからね」と足早に通り過ぎてしまうことのほうが多い。 それに、これはよく言われることだが、図書館と町の本屋さんが本との出会いのすべてだった時代は過ぎてしまった。いまでは少年少女はスマホやタブレットのアプリで漫画を読み、大人が本を買う場合も人によっては電子書籍を好むし、インターネットで下調べをしてだいたいの目星をつけてから書店に行くこともある。 私も、小部数の本を緊急に入手しなければいけない場合は都心にある大きめの書店を頼る。それでもたまに、妙に心を惹かれる町の本屋さんに出会うことがあって、そういうときは時間がかかっても、めあての本を注文して取り寄せてもらうことにしている。ついでに昔から変わらずある文庫の棚を眺めて、読み損ねていた現代小説を手にとる。