水俣病を取材した写真家ユージン・スミス グラフ誌が出来事を伝えた時代
現在はSNS全盛時代。さまざまな情報がネット上に交錯する。何か事件が起きればメディアが駆けつける前にその場にいる人がスマホで動画や写真を撮影し瞬時にSNSにアップ、それを見たメディアが投稿者と連絡を取ってその映像を番組用に提供してもらうといったケースも珍しくない。その前にはテレビ全盛の時代があった。日本でも1963年11月にケネディ大統領暗殺のニュースが初の日米間衛星中継で伝えられた。世界中を映像が結んだ。そしてそれ以前にはグラフ誌の黄金時代があった。世界各地で起きる戦争などの出来事を、現地に赴いたカメラマンやジャーナリストが取材・撮影した写真や記事が誌面を飾り、人々は何が起きているのかを知った。そんな時代に日本で取材活動を行い、公害病である水俣病(みなまたびょう)を世界に伝えたユージン・スミスという写真家がいた。スミスが活躍した時代を振り返ってみたい。
水俣病に苦しむ人々の実情を伝えた
水俣病は化学工場などから環境に排出された有害物質によって汚染された海産物を経口摂取したことで熊本県水俣市で集団発生したとされる公害病で、1956年5月に公式に確認された。水俣病との名前が使われ始めたのは58年頃からといわれる。68年9月に厚生省(当時)は同病の原因物質をチッソ水俣工場の廃液に含まれたメチル水銀化合物であると認定した。 この水俣病について1971年から現地で約3年間に渡り取材した写真家がユージン・スミスで、そのスミスをジョニー・デップが演じている映画「MINAMATA-ミナマタ-」(アンドリュー・レヴィタス監督)が先ごろ公開された。デップは製作も手がける。実話を基にした作品で、スミスと当時の妻アイリーン・美緒子・スミス(以下アイリーンさん)の水俣取材の模様や付随するエピソードの数々を描きつつそれを通して現在も世界各地に影を落とす公害問題の警鐘を鳴らす作品となっている。どんな写真家なのか。 スミスは1918年米カンザス州で最大の都市ウィチタの出身。14歳の頃から写真に興味を持ち高校在学中から地元の2つの新聞のための写真を撮影していたという。その後、小麦商を営んでいた父親が事業を失敗したことからみずから命を断つ不幸もあったが、プロ写真家を目指してニューヨークへ移り18歳のときには「ニューズウィーク」で仕事を始め、まもなく「ライフ」などでも仕事をするようになる。まだ10代のうちだったのだから才能とチャンスに恵まれていたのだろう。