水俣病を取材した写真家ユージン・スミス グラフ誌が出来事を伝えた時代
日本と縁が深かった写真家スミス
日本とは水俣以前から縁が深く、第二次世界大戦では太平洋戦争に従軍しサイパンや硫黄島、沖縄などで撮影をしたが1945年の沖縄戦で日本軍の飛翔弾で爆風を受け重傷を負った。今作でも戦場の記憶がフラッシュバックして苦しむシーンが描かれている。約2年におよんだ療養後には仕事に戻り、「Country Doctor (カントリー・ドクター)」「Spanish Village(スペインの村)」「A Man of Mercy(慈悲の人)」はじめ数多くのフォトエッセイ(複数の写真を組むことでルポルタージュする手法)を発表。なお今作でスミスがライフ編集長から厄介者のように揶揄される場面があるが、実際スミスは編集者との衝突を辞さない気骨の持ち主だったようだ。ライフでも1950年に英国で労働党党首選挙を取材した際や「A Man of Mercy」の際にも編集方針やレイアウトをめぐり対立するなど度々衝突を繰り返したエピソードが残されている。54年にライフをいったん離れた後は写真家集団マグナム・フォトに加わった。スミスが活躍した当時はライフをはじめとするグラフ誌など印刷メディアの黄金時代だったが、今作でも描かれている通り水俣取材の頃はテレビの台頭でその黄金時代が終焉を迎えつつある時期でもあった。 日本には他に水俣での来日の10年ほど前、1961年から62年にかけて日立製作所のPR写真を撮るため日立市に滞在したこともある。水俣には妻アイリーンさんと1971年から約3年住んだ。今作では美波がアイリーンさん役を演じているが、スミスとは1970年ニューヨークで出会った。富士フイルムのCMでスミスにインタビューが行われ、アイリーンさんが通訳を務めたのだった。アイリーンさんは日本人の母親とアメリカ人の父親のもとに生まれ、東京で育って11歳のとき渡米していた。出会いからまもなくスミスの希望によりアイリーンさんはアシスタントになり、ともに暮らし始めた。71年に水俣取材のために来日、夫婦となった2人は熊本県水俣市に住んだ。アイリーンさんもカメラを握り、また新たにアシスタントとなった石川武志さんもスミスとともに取材の最前線に立った。