水俣病を取材した写真家ユージン・スミス グラフ誌が出来事を伝えた時代
エンターテインメント映画の枠組で伝える意義
今作はその水俣での模様を事実を基に映画化したフィクション作品だ。共演は他に英国の名優ビル・ナイをはじめ日本から真田広之、國村隼、加瀬亮、浅野忠信、岩瀬晶子ら実力派を揃えた。また、音楽は産業公害に関心を持つ坂本龍一が担当。同作はドキュメンタリー映画ではなくあくまで商業映画でありエンターテインメントとしてのドラマなのでディテールについて必ずしも正確に再現されているわけではないが、実話に即しつつスミスが取材を通して伝えたかったエッセンスが表現されていることは間違いないだろう。現在アイリーンさんは京都市に在住し環境活動家として市民団体「グリーン・アクション」の代表を務めるが、当時の状況を知る人として今作に協力している。 今作でも人々の分断の場面が描かれているが、現在も水俣には「この映画を広く多くの人に見てほしい」という人もいれば「そっとしておいて欲しい」という人たちもいる。極めてデリケートな問題ではあるが、いま商業映画の枠組みの中で商業映画の吸引力を活用して水俣病はもちろんのこといまなお地球上のさまざまな場所に影を落とし続ける公害問題に人々の関心を集めるという部分では、有意義な取り組みといえるのではないだろうか。 (文・志和浩司) ■ウィリアム・ユージン・スミス/W. EUGENE SMITH 1918年12月30日、米カンザス州ウィチタ生まれ。少年期から写真に興味を持ち高校在学中には地元新聞紙に写真を発表。1936年ノートルダム大学に入学したが半年で中退、翌年にニューヨーク・インスティチュート・オブ・フォトグラフィーに編入。「ニューズウィーク」でカメラマンとなり、まもなく「ライフ」のカメラマンとなった。1941年、太平洋戦争の戦地を取材。45年に沖縄戦で重傷を負い、約2年間の休養を経て復帰する。その後はライフを舞台に数々のフォトエッセイを発表するが編集方針をめぐり対立、54年にいったん同誌を離れると翌55年には写真家集団「マグナム・フォト」に参加した。初来日は1961年で日立製作所のPR撮影のため約1年間茨城県日立市に滞在。1971年8月に写真展 「真実こそわが友」開催のため再び来日するとアイリーンさんと結婚、熊本県水俣市に移住し水俣病取材に取り組む。72年1月7日、千葉県市原市のチッソ五井工場を訪問した際にいわゆる「五井事件」(水俣病患者や支援者らとチッソ労働組合の組合員らが衝突)に巻き込まれ重傷を負う。当時は患者側からチッソに対し損害賠償請求の裁判が起こされ世間の関心が集まっている時期でもあった。同年6月2日号のライフに夫妻の連名で水俣のフォトエッセイが掲載されると世界的な注目を集めた。73年4月には東京で写真展「水俣 生―その神聖と冒涜」開催。ひと通り取材を終えた夫妻は74年10月アメリカへ帰国し翌75年、アイリーンさんとの共著で写真集「MINAMATA」が出版(日本語版は80年)されると大きな反響を呼んだ。その後アイリーンさんと離婚したスミスはアリゾナ大学の写真教授になるため、アリゾナ州ツーソンに移った。77年末には脳溢血の発作で倒れ、78年10月15日に自宅そばの食料雑貨店に猫のエサを買いに来た際、二度目の発作を起こして死去した。享年59。写真集「MINAMATA」は遺作となった。