脳腫瘍、悪性リンパ腫、白血病、大腸がん、肺がんを乗り越えたIT社長…闘病と体力回復のリアル
なぜこのときの告知が一番辛かったか
急性骨髄性白血病の告知は、それまでの2回のがんの告知よりも何倍も辛く、そして悔しいものでした。それは私自身の置かれていた状況によるところが大きいです。 私はこの告知の3週間前に、2001年に設立した株式会社オーシャンブリッジを売却していました。 それまで脳腫瘍、悪性リンパ腫と度重なるがん闘病を経験して、これ以上自分が経営を続けていくことは難しいと考えたのです。 病気になるまでは「死ぬまで会社を経営し続けること」が人生の目標だった自分にとって、自分が立ち上げた会社を売却して経営から退くというのは、まさに苦渋の決断でした。 2011年に脳腫瘍の摘出手術と放射線治療と化学療法を受けて退院したときは、体力的なダメージはそれほど大きくはなく、2か月ほどの自宅療養を経て、仕事に復帰しました(化学療法は退院後も通院で継続しました)。 手術の後遺症として視野の左下4分の1を失うという視覚障害が残ったことから、PC操作ではいろいろと不都合がありましたが、作業のやり方を工夫してなんとかしようとしていました。 しかし、2013年に悪性リンパ腫の治療を終えて退院した後は、体重が10キロほど減り、脚力や体力が衰え、仕事をするどころか会社に行くのも難しい状況でした。 身長176センチで体重46キロになってしまったので本当にガリガリで、脂肪も筋肉も大きく失われていました。 脚力は、床に座った状態から自分の足だけでは立ち上がれないほどに落ちていて、いつも窓枠や妻の体につかまって立ち上がっていました。 家の階段は四つん這いになったり両手で手すりにつかまったりして上り下りするしかありません。 2~3分も歩くと足が疲れ、近所を散歩するのもままならない状態でした。 それでも一日でも早く会社に戻りたいと、自分なりに毎日ウォーキングなどのリハビリに努めました。 数か月して、多少体力が回復してきたころ、週に1回くらいのペースでタクシーに乗って会社に顔を出せるようになりました。 とにかく早く仕事に復帰したい、またビジネスを通じて社会に貢献したいと必死でした。 私が設立したオーシャンブリッジは、海外のIT企業が開発したソフトウェアをローカライズ(日本語化)して日本市場で販売し、サポートを提供するビジネスを手掛けており、大企業や官公庁、自治体など幅広いお客様を抱えて事業を展開していました。 お客様から「オーシャンブリッジさんのおかげで業務効率が上がりました!」といった喜びの声をいただくたびに、世の中に貢献できているという手応えを感じていました。 海外と日本の「架け橋」としてのオーシャンブリッジの存在価値を実感することができました。 30歳で人生をかけて立ち上げたオーシャンブリッジという会社は、自分のアイデンティティの大きな部分を占めていたのです。