千島連盟・脇理事長(全文2)約60年ぶり故郷はロシア化「感じたのは違和感」
突然の引き揚げ命令 庭に大事なものを埋めた父親の姿
――引き揚げ時は記憶されていますか。 「ある日突然、集落の、今で言う自治会長というか、世話人が『明日までに集結しなければならなくなった。したがって持てる物だけ持って、集まれ』という話になって。そのころは、今のような移動して歩くときのバッグなどなかったですから、風呂敷の中にいろんなものを詰めて、私も子供だったんですが、何か背負わされたような気がしてるんです。」 「家を離れるときに、父親が甕(かめ)に何か大事そうなものを、おそらく私の目では、写真だったかと思うんですが、あるいはなんかの書類だったのかわかりませんけれど、それを入れて、うちの庭のところに埋めていたという記憶があって、そのとき私が感じたのは、ああ親父はまた帰ってこれるんだ、と思って、きっと埋めたんだなあと。帰ってこないとすれば埋める必要もなかったでしょうし、そのような気がしていました。」 「そして隣の集落に集められて、そこで船が来るのを待って、それが一週間か十日だったか、貨客船でなくて大きな貨物船が来て、とてつもなく私たちから見ると大きな船だったと思うんですけど、何千トンという船、それに乗せられた。その乗せられたときのことも鮮明に恐怖として記憶してるんですが、小さな船から大きな船に乗り移るときに、いまみたいなタラップとかじゃなくて、荷物を荷揚げするようなところに全部われわれ乗せられて。要するに畚(もっこ)というか、そういう大きいものに乗せられ、そのとき黒い海が見えて、夕方だったですから落ちるんじゃないかなって気がして、非常に怖かったという記憶がある。」
幼い子供が命を落とした樺太収容所のトイレ
――そこから樺太に行ったのですか。 「そこから樺太に収容されて、樺太の旧真岡、そこの高台にある小学校か中学校なのか。学校だったことは確かだと思うんですけど、そこに収容されて、2週間ぐらいいました。そのときの生活も、かなり劣悪な状況で、食事もわけのわからないというのは適当でないかもしれないですけど、何が入っていたのか、今ではわかりませんけれど、スープみたいなものと、あるいは黒パンだとか、それが毎日食事としていただいてたっていう生活だったこと。」 「それから外に、ただすぼみにしたトイレがあって、すごく深い。たくさんの人が収容されているもんですから、かなり大きなトイレ、深いんですよ。板を渡しているだけで、トイレに行くと、私は直接見なかったんですけど、大人たちはずいぶん、私よりまだ小さかったと思う赤ん坊たちが、その便槽の中で死んでいるというようなことも聞かされて、本当にあのトイレに行くのが怖かったような記憶をしています。そこで2週間ぐらい滞在して、最後の引き揚げ船が迎えに来てくれて函館に上陸しました。」