千島連盟・脇理事長(全文2)約60年ぶり故郷はロシア化「感じたのは違和感」
亡くなった母「とにかく先祖のお墓に参りたい」
――自宅跡も訪ねたのですか。 「その後、全部で4回行ってます。最初に言ったのが先遣隊で、それから2006年、自由訪問のとき、自宅跡に立つことができました。もし自分ひとりであれば、おそらくたどり着けなかったと、集落はわかっていても自宅がどこにあったかということまでは、おそらくわかんなかったと思うんですけど、たまたま私の隣の家にいたおじさんが一緒に行ってくれて、それとうちの姉も一緒だったこともあって、なんとか自分のうちの跡地に立つことが出来ました。」 「建物はもちろんないし、ただ自分のうちの跡だったということを確認できたのは、小さな川が流れているのは変わっていませんでした。先ほど言ったコンブであるとか、それからギンナン草であるとか採ったりした小さな船が着ける場所、浜辺の磯の場所、その岩が天然の船寄り場みたいな形であった、それが変わってなかったことがわかって、やっぱりここだったっていう確認が出来ました。」 ――58年がかり、ということですね。 「10年前、65歳のときだから。7歳のときに来ているわけですから約60年です。」 ――両親は国後を訪れることはできましたか。 「できませんでした。ビザなし訪問が始まる前に亡くなりました。特に母は、一度はとにかく先祖のお墓だけでも参りたいなということは常々、言ってました。」
あちこち荒れた島 ほとんどの墓地はたどり着けない
――墓参もありますが、そちらに参加は? 「墓参はまだ行っていません。何でかと言ったら、実際の墓地まで行けないんです。山の中にあって、今は、うっそうと木や草がもう茂っていて、しかも、クマが出没する、危険だということもあって。今、たくさん島に、墓地が何十カ所もありますけど、実際に行けるところは何カ所ぐらいあると思いますか。ほとんど行けない。近くでこの辺だな、というところで、共同で墓参ということをやっています。」
対個人では深化したロシア島民との交流 だが領土問題は“別の問題”
――ロシアの現島民と相互交流をしていますが、お互いの理解という部分はどういう風に見ていますか。 「始まったころと今では、ビザなし訪問が始まってもう20年以上経っているんです。ビザなし交流という部分では、私は、お互いに現島民と元島民を含め、特に北海道、われわれ日本との個人対個人という面での交流は深まったと思っているんですよ。いい意味で深まっていると思っている。深化したと思っているんです。」 「しかし領土ということに関しては、特に、今住んでいるロシア人は、『これは国と国との問題で、われわれがどうこうっていうことをコメントするっていう状況ではない』っていうのが最近の考え方ですね。最初始まったころは結構、領土問題についても対話集会をやっていたんです。われわれ日本の主張、向こうは向こうの考え方を。これだけビザなし交流が、時間が経過したことと、たまたま時期を同じくして、ロシアでインフラ整備がどんどん進められてきたっていうのがひとつあるんです。」 「最初のころはインフラ整備が進められてなかった、あるいは自分たちが住んでいる島が日本に返されるのではないかなっていう、きっと懸念もあったのではないかと思うんですね。したがってそのころの意向調査などをみると、日本にこの島が返ってもいいっていう人も、かなりいたんですけど、最近はほとんど返さないほうがいいという状況になっています。そういう意味では、個人と個人の交流、ビザなし交流がいい意味で進展しているということとはまた別。領土問題というのはまた別の問題だ、ということだと思います。」