千島連盟・脇理事長(全文2)約60年ぶり故郷はロシア化「感じたのは違和感」
函館から羅臼へ 国後をながめながら「いずれは帰れる」
――函館から、現在の羅臼の方へは。 「函館の港、沖合いに船が停泊したとき、函館の街並みにびっくりしました、電気がついていて。国後にいたときはランプ生活でしたから、電気なんてもちろんなかったです。函館に上陸してそのとき、今はそんなことしないんでしょうけど、消毒のDDTを体中に噴射された記憶もあって。函館からは母の弟がいたもんですから、その叔父さんを頼って羅臼にたどりついたと。羅臼からは幸いにして、大変ですが、自分の生まれた国後の島が、毎日毎日26キロ先ですから、見えていたということで、最初のころは、いずれは帰れるんだろうなあと、いう風には思っていました。」
約60年ぶりに訪問したふるさと ロシア風街並みへの強い違和感
――羅臼では、ふるさと国後が横たわる形で大きく見える。いつか帰れるだろうという思いがあったそうですが、実際に北方領土訪問の形で行かれたのはいつごろでしたか。 「ビザなし交流が始まったのが平成4年でした。私はそのとき、元島民という立場でなく仕事上、調査隊・先遣隊として一回目のときにまず行ったんです。そのときは国後も、択捉も、そして色丹も全部回りました。調査隊ではあったんですけど、やはり自分の生まれた国後の土を踏んだときになんとも言えない。言葉でちょっと表現できなかったですね。」 「自分の生まれたふるさとなんだ、と思いながら、周りを見ると、カラフルな建物が縷々(るる)とロシアの建物になっていて、しかもそこに住んでいるのがロシア人だと。日本人が住んでいれば、そういう違和感もなかったんでしょうけど、自分の生まれたところに、今住んでいるのがロシア人だということを実際にこの目で見たときに、なんともいえない感情を持ちましたね。」 ――感慨ではなくて、違和感でしたか。 「違和感でした。もう少し別の言い方すると、植生、自然そのものは日本と、特に根室地方と同じなんですよね。木であるとか、樹木であるとか、草であるとか、そういうたたずまい、自然のたたずまいが日本と同じでありながら、そこに生活しているのがロシア人であったり、日本の建物はほとんどもう朽ち果ててなくなっていて、ロシアの建物が建っていて、そこで生活しているということでの違和感。」