『あなたの番です』『変な家』...令和の若者に“考察ドラマ”がヒットする理由
正解がない批評、正解がある考察
批評の時代から、考察の時代へ。いま、そのような変化が起きているとするなら、背景にはいったい何があるのだろう? 私が提示した「批評」と「考察」の違いを確認しよう。 考察には「正解」がある 批評には「正解」がない そう、重要なのは解釈の「正解」の有無だ。 考察には、作者が提示する「正解」がある。『君たちはどう生きるか』を見て、解釈を提示すること。『変な家』を読んで、不可解な間取りの理由を知ること。『あなたの番です』を見て、真犯人は誰かを当てること。これらはすべて、作者側から提示された「正解」がある。 だが、批評に「正解」はない。『君たちはどう生きるか』を見て、眞人の母が眠り続けている理由を考えること。『変な家』を読んで、なぜ本作の最後に日本のムラ社会的なテーマが入り込むのかを考えること。『あなたの番です』を見て、本作が流行する背景を考えること。そこに「正解」はない。 だからこそ、批評にはゴールがない。 せっかく批評しようと頑張って努力しても、正解がなければ、その努力は報われない。だが考察は、正解がどこかにあるため、「わざわざ努力する価値がある」のではないか。報われやすく、やりがいもある。 考察は「正解」がある=報われるゴールがある 批評は「正解」がない=報われない 令和。それはもしかしたら、物語を楽しむことにすら「報われること」を求めてしまう時代なのかもしれない。ジブリの映画を見て、自分独自の解釈を巡らせることよりも、作者が提示する正解を当てる考察のほうが楽しめる。 ここで自分自身の「ネタバレ」をすると、筆者は「批評の時代」を生きてきた人間の一人である。なんせ肩書きは「文芸評論家」である。批評が好きで、この世界に入ってきたのだ。ぶっちゃけ、考察の時代の台頭に驚いている。しかし、だからこそ思う。「考察の時代」特有の流行は、今後さらに広がるのではないだろうか? もはや時代は平成ではない。令和なのだ。批評の時代ではない。考察の時代なのだ。そんな時代の変化がさまざまなエンターテインメントで見られる。 令和を生きる若い世代は、報われる正解を求めて、エンターテインメントを「考察」しながら楽しんでいる。昭和・平成を生きていた人びとが驚くようなヒットの要因が、そこには存在するのである。
三宅香帆(文芸評論家)