『あなたの番です』『変な家』...令和の若者に“考察ドラマ”がヒットする理由
批評の時代から、考察の時代へ
このように、令和では小説・ドラマ・動画を問わず、若い世代を中心に考察は社会現象になっているのだ。 私は現代を「考察の時代」だと考えている。考察は1つのフィクションの楽しみ方にとどまらず、現代特有の傾向を象徴しているのではないだろうか。 ここまで見たとおり、考察とは「作者が作品に仕掛けた謎を解こうとする」ことだ。たとえば、ドラマ制作者が作品に仕掛けた謎を視聴者が番組を見ながら解いていくこと、映画制作者が映画に忍ばせておいた秘密を視聴者が紐解くこと。どんな作品にせよ、令和になってから流行している「考察」は、作者が仕掛けた謎を、読者(視聴者・消費者)が解こうとするゲームのことである。 ではフィクションの楽しみ方で、「考察」がなかった時代は、何をしていたのか。――令和以前に流行していたのは、「批評」だった。 そう、平成以前とは、「批評の時代」だったのだ。批評とは「作者すら思いついていない作品の解釈を提示する」こと。つまり作者は作品の生みの親ではあるが、親が子のことをすべて理解しているとは限らないのと同じで、作者が作品のことをすべて理解しているとは限らない。このような態度を批評は取っている。 考察=作者が提示する謎を解くこと 批評=作者も把握してない謎を解くこと たとえば『となりのトトロ』を見て「じつは宮﨑駿は、"サツキとメイはすでに死んでいる"という設定を潜ませているのだ」という解釈を行なうのは、考察である。「じつは"サツキとメイは幼いうちに日本で戦争によって亡くなった子どものメタファー"として捉えられる」という解釈を行なうのは、批評である。 重要なのは「作者の意図」への意識の有無だ。 批評から、考察へ。このようなフィクションを楽しむ人びとの変化は、何を示しているのか。つまり、フィクションを楽しむにあたり、解釈を「作者の意図」として受け取ったほうが安心できる人が増えている。そう言えるのではないか。 この時代の変化を象徴するのが、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』とその制作ドキュメンタリー『プロフェッショナル 仕事の流儀』(NHK)の「庵野秀明スペシャル」を見た視聴者の反応だった。両作を見た視聴者たちのSNSを中心に、「庵野監督は妻の安野モヨコをモデルにしてマリを描いた」という意見が広がったのだ。 その後、庵野監督はXのエヴァンゲリオン公式アカウントで「それは一部の人の解釈・憶測にすぎません」と言及した。このやり取りから、「マリとは安野モヨコのような理解ある妻の"表象"である」という批評がもはや存在しておらず、「庵野監督は、安野モヨコを"モデル"にしてマリを描いたのではないか」という考察しか広がらない令和時代の視聴のあり方を見て取れる。 正解かどうかわからない個人の解釈を知っても、面白くない。作者が潜ませた"正解"を知ることのほうが、面白い。批評から考察へという流れのなかには、そのような「面白さ」の変化が存在しているのだ。