戦前に満州・台湾で甲子園を夢見た高校球児たちの青春 “外地”で花開いた野球文化と戦争の悲劇
戦前、日本が統治した台湾や朝鮮などの「外地」にも、野球文化が花開いていった。そして、内地と同じように甲子園を夢見る高校球児たちがいたのである。しかし、彼らの青春はやがて戦争に呑み込まれてゆく……。今回は、知られざる「戦前外地の高校野球」についてご紹介したい。 ■台湾・朝鮮の野球ブーム 筆者の父親はかつて、満洲代表として甲子園大会に2回出場した。その話を知人や出会った人にすると、毎度すごく驚かれる。我が家では当たり前のように語られてきた戦前外地の高校野球が、全く知られてないのに私の方も毎回驚く。 しかし考えてみれば、もはや昭和も遠い昔だ。知っている人間自体が少なくなったし、マスコミなどで取り上げられることもない。 戦前外地の高校野球史は、アジアに拡張していった近代日本史の一面であり、濃厚なアジア体験の一部である。もはや想像もできない遠い昔の若者たちの、青春が詰まった物語なのだ。 外地とは当時、日本国内を示す内地の対語として使われた言葉である。高校野球も政治や外交、そして戦争と無縁ではなかった。外地の高校野球は内地より早く、そして激しく戦争に巻き込まれて消えていった。 台湾は日本が明治28年(1895年)、日清戦争後の馬関(下関)条約で清朝から割譲を受けた地である。初期の武力抵抗が収まり、日本による統治が緩やかなものになっていくと日本人移住者が増えた。そして、内地での野球ブームが台湾にも伝わっていった。 明治30年代末には、すでに台湾各地で野球が行われていた。最初に野球部を作ったのは台湾総督府国語学校附属中等部で、後の台湾一中、現在の建国中学である。明治39年(1906年)のことで、当時の田中校長が率先して創部した。 以後、野球チームが次々に誕生し、台北を中心とした北部に野球ブームが起こる。それはやがて全島に波及し、大正12(1923年)、地区予選を兼ねた第1回全島中等学校野球大会が開かれた。これがやがて昭和6年(1931年)の代表校、嘉義農林の甲子園大会準優勝へとつながっていくのだが、詳細は次回に譲りたい。 朝鮮でも野球人気は高まっていた。朝鮮に野球をもたらしたのはアメリカ人宣教師だと言われている。明治37年(1904年)頃、漢城(今のソウル、植民地時代は京城)の一角に皇城YMCA会館が建ち、そこに宣教師のG・L・ジレットが着任してきて野球を伝えた。 朝鮮半島への日本人移住者は日清戦争後に増え始め、明治38年(1905年)には、日本人も通う官立漢城高等学校に野球チームができる。体操科主任だった高橋教官が育て上げた。 この高橋教官が審判となって、皇城YMCA野球団と漢城高等学校が初めての対抗試合を行ったのである。これに刺激されて野球熱が広まり、次々に野球チームが誕生した。それに拍車をかけたのが留学生チームの帰省である。 明治42年(1909年)の夏、野球の技術を身につけた留学生たちが日本から戻ってきた。彼らは颯爽としたユニフォーム姿で、スパイク付きの靴を履いていた。その上、彼らは最強の皇城YMCA野球団を破ったのである。翌年、日本は韓国を併合した。以後も留学生チームは夏休みごとに帰省して、朝鮮人チームの指導にあたった。 明治45年(1911年)には留学生チームと皇城YMCA野球団が連合チームを結成して、日本人チームと試合をした。結果は一勝一敗だった。それに力を得て、連合チームは大正元年(1912年)、内地遠征の旅に出ている。 徳富蘇峰が主宰していた『国民新聞』は「石投げの名人、朝鮮野球団来る」という見出しを掲げた。大正6年(1917年)には、内地から早稲田大学が遠征してきた。翌年の夏には法政・明治の両大学が、その翌年には慶應大学もやってきた。 この大正8年(1919年)は、いわゆる3・1独立運動が起きた年である。総督府は全土に、厳しい監視の目を張り巡らせていた。こういう様々な出来事が同時進行で起きていたことに、日本統治下における朝鮮の複雑な社会状況がかいま見える。 力で抑えつける統治が3・1独立運動を招いたとの批判を受けて、総督府は人心を掌握する文化政治に転換した。そして、それまで許さなかった甲子園大会への参加を認めるようになる。 かくして大正10年(1921年)、第1回朝鮮地区予選が開催された。第1回地区予選の参加校は、京城中学・釜山商業・龍山中学・仁川商業の4校である。優勝したのは釜山商業だった。以後は日本人と朝鮮人が入り乱れて隆盛する。