戦前に満州・台湾で甲子園を夢見た高校球児たちの青春 “外地”で花開いた野球文化と戦争の悲劇
■中国大陸における動乱と野球文化 一方、中国大陸における野球は、大連を中心に栄えていった。大連は日露戦争後のポーツマス条約で、日本が権益を得た遼東半島の端にある。一帯は関東州と呼ばれ、満洲の南端だった。 そこに明治40年(1907年)、南満州鉄道、略して満鉄の本社が東京から移ってきた。満鉄は東清鉄道の南満洲支線と、その付属地経営のために作られた国策会社である。 大連は満鉄の社員や関係者、それに一攫千金を夢見る日本人たちで賑わった。広い土地に内地でも見られないような街並みが広がり、モダンな市民生活が営まれたのである。 当時、資本金2億円の大企業だった満鉄は、満洲全般の経営のみならず、スポーツや文化面でも大きな影響力を持っていた。本社を移すとすぐに、人材育成のため見習い夜学校を開き、野球部を作っている。すでに、明治の末には各社が野球チームを持っていた。 そんな関東州と満洲地域に初めてできた日本の中等学校は、明治42年(1909年)創立の旅順中学である。関東州を代表する進学校となり、卒業生は内地の大学にも進学した。開校の2年後には辛亥革命で清朝が倒れ、中華民国が誕生している。 王朝が途絶えるという有史以来の大変革にあっても、日本人は自分たちの世界を構築し、野球を続けていた。そして朝鮮と同じく大正10年(1921年)に、第1回満洲地区予選が開催されたのである。 記念すべき第1回大会の参加校は旅順中学、大連商業、南満工業の三校だった。大連より北にも、奉天中学や長春商業といった新設校が存在した。しかし満洲地域の中学はまだ、地区予選に参加できる体制が整っていなかった。優勝したのは大連商業で、以後、甲子園で大活躍するのである。 満洲・関東州地域の野球少年たちは、やがて始まる日中戦争に巻き込まれて苦難の道を歩む。天津商業の投手として甲子園の土を踏んだ筆者の父親も、その一人だった。その状況についてはまた、別の回で詳述したい。
川西玲子