「津波警報=避難指示」だけなら避難情報なんていらない? トンガ沖噴火から考える「避難情報廃止論」
避難情報は「いらない」?
避難情報は万全ではない。だからこそ、避難情報などというあいまいな情報が発表されたか、されていないかということに、住民は自らの命を委ねてはいけないのだ。そして、自治体も、避難をするかしないかを判断する「きっかけ」や「根拠」として、避難情報に頼ったり依存したりすることを住民に推奨するような物言いは、避けるべきなのだ。 今回のトンガの海底噴火に伴う潮位変化の事例でいえば、「津波情報=避難情報」という構図に徹するのなら、その大元の情報である津波情報だけで事は足りる。いまならテレビ・ラジオ・スマホ・インターネットが津波情報を即座に伝えてくれるだろう。むしろ、わざわざ避難情報を経由することには、避難情報が遅れたり、そもそも発表されなかったり、内容が歪んだりするかもしれないリスクだってある。 極論すれば、避難情報は冗長であり、端的に言って「いらない」のである。
避難情報の“目的外利用”は許されないだろうか?
しかし、である。「避難情報はいらない」などと言いながらも、私は「いや、だとしても、そんなことはない、避難情報は必要だ、避難情報こそが担い得る役割があるはずだ」という反論を期待したいのだ。 「遠い太平洋上の大噴火によって国内で想定外の潮位変動が観測されたらしい。しかし気象庁からは『津波の心配はない』との情報がそれより前にあっただけで、その後、津波情報の発表はない。私たちは、何もしなくていいのだろうか…」 今回の事態で、自治体職員が抱かずにはいられなかったであろう、こうした「危機感と不安感」。これをひろく地域住民へ伝え、共有するための手段として、避難情報という既存のルールをいわば“目的外利用”することは、果たして許されないだろうか? そのような意味での“目的外利用”なら、やはり、それを咎める者はきっと少ないはずではないだろうか。むしろ、そのような気概をもった職員がわが自治体にいることを、誇りに感じ、勇気づけられる者だってきっといるかもしれない。 「おそらくこれからもいろんな想定外の事態はやってくるだろう。しかし、そんな時であっても、私たちはこのまちとであれば、ともに歩んでいけるぞ、一緒に災害に向き合っていけるぞ」というように。 もちろん、この想像は、「ためらいと葛藤」を抱かずにはいられず、なおかつ、「危機感と不安感」を地域住民と共有する必要性を感じずにはいられない自治体職員の存在を大前提としたものだ。その前提がもし間違っているのなら話は別である。その場合は、繰り返しになるが、避難情報は端的に言って不要だ。