「津波警報=避難指示」だけなら避難情報なんていらない? トンガ沖噴火から考える「避難情報廃止論」
もし、津波情報が発表されていなかったら…
ところで、気象庁が「ためらいと葛藤」の末に4時間遅れで発表にこぎつけた津波情報が、「最終的にいっさい発表されていなかった事態」というものを想像してみたい。たまたま、気象庁は“目的外利用”も辞さず、自分たちの仕事のあり方を更新していく気概を持っていたが、そうではない事態もじゅうぶんにあり得たはずだからだ。 そして、「もし、津波情報が発表されていなかったら、避難情報を発表する自治体は皆無だったのではないか」と私は想像する。 「当たり前だ」と思う人もいるかもしれない。「津波情報が出たら避難情報を出します」などというように、「津波情報=避難情報」という構図をことさら強調する自治体も少なくない。しかし、もし、これが当たり前なのだとすれば、避難情報とはいったい何なのだろうか。この場合における避難情報は、もはや「避難が必要な人に、避難の必要性を指南する情報」などではない。ただ単に「津波情報が発表されたことをお知らせする情報」に過ぎなかったということになってしまわないだろうか。 厳密な意味でいうと、避難情報というものには、その程度の役割しか担わせられないのだろうと思う。もとより、自然災害の専門家ではない自治体職員に、「避難情報という道具ひとつで避難の要否を的確に指示せよ」などという要求は、無理難題に過ぎる。
避難情報の形骸化に懸念
避難情報の精度を考える時、「避難情報とは避難が必要か、必要でないかを指示する情報である」という前提に立つなら、「ハズレ」よりも「アタリ」が求められるのは当然のことのように思われる。ここでいう「アタリ」とは、避難が必要な時に避難情報が出されること、および、避難の必要がない時には避難情報は出されないこと、である。 他方、避難の必要がないのに避難情報が出る事態は「空振り」と呼ばれ、避難が必要なのに避難情報を出さない事態は「見逃し」と呼ばれる。この「空振り」と「見逃し」が、ここでいう「ハズレ」である。 しかし、この「ハズレ」を完全に避けることなど、技術的・制度的にいって無理なのである。近年は「空振り」を恐れずに避難情報を多発化する傾向が強まっている。「津波情報が出たら避難情報を出します」のように、気象庁の情報を「空振りを恐れず」に避難情報に変換して伝えることに徹するだけなら、避難情報の「ハズレ」が増えていくことは確実だ。避難情報の「避難が必要か、必要でないかを指示する情報」としての精度など、もはや望めるはずもない。 「避難情報が出て、それに従って避難したのに、無駄だったじゃないか」などと憤慨する住民を多く生じさせ、さながらオオカミ少年によって連発される「うそ」のように、避難情報がどんどん形骸化していってしまうことに、私は強い懸念を感じる。