95歳認知症の父が、老人ホームの生活で元気に。だが、5歳下の後輩の訃報を聞き、泣きながら名簿に×をつけ…
◆個性的な入居者がいる 2024年1月。札幌は最高気温が零下になる日も多くなり、寒さが厳しい時期になってきた。しかし、雪が降っても寒さにも負けず、いつもホームのロビーの椅子に入り口の方を見て座っている女性がいる。きれいな白髪を後ろで束ね、明るい色合いの薄手のセーターを着て、すらりとした体にスラックスを履いて姿勢よく座っている。 建物の中は暖房が効いているのだが、入り口のドアが開くたびに冷たい空気が流れ込んでくる。私は心配になって声をかけた。 「コートを着ないと寒いんじゃないですか?」 その女性は微かに微笑んで答えた。 「いいえ」 入居者のことをいつも細やかに見てくれているホームのスタッフが、気付いていないはずはない。きっとその人は薄着でその場所にいるのが好きなのだろう。私は余計なことを言ってしまったのかもしれない。 父もその女性が気になるらしくて、不思議そうに言う。 「あの人、いつもあそこにいるな。誰かを待っているのかな」 「パパ、私もそう思うよ。でも、毎日待っていても誰も来なかったら寂しいだろうね」 「それは考え過ぎだ。人のことを詮索するものじゃない。おまえは余計なことを想像し過ぎるところがある」 軽薄な娘を諭す父親という構図になったのは、久しぶりだ。しっかりして威厳のあった父の姿が甦ってきた。
◆友人の訃報に父は肩を落とした 同じ会社に勤めていた同年代の人と、月に一度集まってランチを食べるOB会は、父の老後の楽しみだった。たぶん父が70歳くらいの頃に始まったのだが、同年代の人は80歳を過ぎて病気になったり、地下鉄の上り下りが困難になったりして、参加者が少なくなってしまった。 父が90歳になった時には同期の人は誰もいなくなり、後輩が参加してくれてどうにかOB会が続けられていた。後輩だからみんなが父のことを立ててくれる。娘の私としてもありがたく感じている。 認知症になってからは、私が車で送り迎えをしてOB会をする店に連れて行っていた。父には秘密で後輩の方に電話して、食事中の父の様子を聞いたこともある。 その中の1人に、足が悪くなってOB会には参加できなくなったが、父にまめに電話をくれていた5歳年下の後輩、Aさんがいる。私の携帯電話にもその人の電話番号を登録してあった。 父の居室でおしゃべりをしている時に、私の携帯電話が鳴った。Aさんの名前が表示されている。私はよそ行きの声で電話に出た。 「こんにちは、森久美子です」 聞こえてきたのは父の後輩ではなく、私と同じ年頃と思われる女性の声だった。 「久美子さんのお名前が父の携帯に入っていたので、ご報告しようと思ってお電話しました……」 私は心臓が脈打つのを感じたが、次の言葉を待った。 「昨日、父が亡くなりました。父は久美子さんのお父様のことを慕っていたので、連絡したほうがいいと思って……」 あまりに突然のことで、私はお悔やみの言葉と、いつも父の話し相手になってくれていたことへの感謝を申し上げるだけで精一杯だった。隣にいる父は、イライラした様子で私に聞く。 「誰から電話だ?」 相手に少し待っていただき、父にAさんが亡くなったことを伝えた。 「俺に代わってくれ」 私の電話を受け取った父は、お嬢さんに向かって言った。 「いつもお父さんと電話するのが楽しみでした。温厚ないい人でした……私も歳なのでお葬式には行けませんが、ご冥福をお祈りします」 そこまで言うと父は私に電話を返して、しばらく目頭を押さえていた。私は電話を切って、父に声をかけた。 「寂しいね」 するとベッドの近くに置いてある、現役時代の会社で発行された名簿付き写真集を手に取り、亡くなった方の顔写真を指差した。数分思い出を語った父は、私に言った。 「テレビの前に置いてある赤いペンを取ってくれ」 父は写真集の名簿に、誰かが亡くなる度に赤いペンで小さな×をつけるから、名簿は×だらけだ。 泣きながら新たな×を書き込む父を、私はただ茫然と見ていた。 (つづく) 【漫画版オーマイ・ダッド!父がだんだん壊れていく】第一話はこちら
森久美子
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