京大院卒・研究者志望の若者が「おばあちゃん家のお菓子」の跡継ぎに。大胆改革のカギは“データ化”
研究経験を生かして“体感”を数値化
家族に家業を継ぐ意思を宣言した近藤は、関西の大手菓子店たねやグループにアルバイトとして入社。そのまま新卒採用でたねやグループに入社し、計3年、和洋菓子の販売に携わった。 たねやでの修行を終え、退職をした近藤。その姿を見て、3代目の叔父はようやく、近藤の本気度を理解した様子だったという。 「僕が家業を継ぎたいと申し出た時、叔父は本気だと思っていなかったんでしょうね(笑)。たねやを退職したときに初めて『おっ』と思ったみたいです」 家業に入って1年目は、母とともに豆の選別を行ったり、商品を得意先に配達したりと、社内のことを学ぶために奔走した。 しかし、近藤にはどこか慢心があったという。 「叔父が甘納豆を炊いているのを見て、『豆炊くぐらい、簡単にできるやろ』って思っていて。 ある時自宅で、見よう見まねで豆を炊いてみたんですよ。そうしたら、食べられたものじゃないくらいまずかった。そこで甘納豆づくりの奥深さを知って、『まじめにやらないといかんな』と思うようになりました」 1年目で基礎を覚えた近藤は、2年目から徐々に仕事に工夫と変革をもたらし始める。 まずとりかかったのは、甘納豆づくりを“数値化”すること。実験を繰り返してきた大学院時代の経験が生きての発想だった。 「というのも、僕は元々研究畑の人間。数値をもとにデータ化したほうが、早く技術をコピーできると思ったんです。 研究は『同じ条件下で、同じことをしたら、同じ結果が得られる』という考えが基本ですからね」 甘納豆作りは、水の温度と炊く時間、塩と重曹の濃度が肝だ。叔父が感覚で入れていた材料の量や、投入するタイミング、どれくらい炊くか等を、近藤は全てデータに起こし、斗六屋オリジナルの“甘納豆レシピ”を完成させた。
イタリアでポツンと残った甘納豆の試食
決算書の読み方を学び、経営状況を把握し始めた近藤は、ある問題に気付く。ところどころ決算書にマイナスが出ていたのだ。 事業が好調だった祖父の代から、事業のメインは卸売だった。事業を上向かせるためには、値上げが必須だったが、老舗企業に向けて新参者の近藤が値上げを申し出ることは無理に等しかった。 そこで近藤は、大胆な事業改革に打って出る。新卒で働いたたねやグループと同様、小売の販売をメインにすることにしたのだ。当初は、「顧客の顔が見える」ことにやりがいを感じての思索だった。しかし小売であれば、良い商品を作り、ブランド力を付けさえすれば、適正な価格で甘納豆を販売することができるというメリットもあった。 だが、最初に障壁になったのは、甘納豆の“おばあちゃんの家で食べるもの”といったイメージだった。 実際、業務用の製造の傍ら、細々と売っていた斗六屋の甘納豆を買い求める人は、60代以上が9割以上。10年、20年先を考えると、若い顧客を取り込む必要があると考えた近藤は、休日に地元の「手作りマルシェ」に出店するなど、草の根運動を行っていた。 そんなある日、近藤は以前旅行で訪れ、縁を感じていた地・イタリアで「スローフード」なるものの大会があることを知る。 スローフードは、1980年代にイタリア北部で始まり、環境や健康を害さない多様で伝統的な食文化を守る運動のことだ。この大会の存在を知った近藤は、世界で甘納豆がどう受け入れられるかを知るべく、単身イタリアに向かった。 もし海外で甘納豆が受け入れられれば、日本でのイメージ転換にも弾みがつくのではという思惑もあったと言う。 甘納豆の試食ブースを出展するも、結果はあえなく惨敗。 栗の甘露煮の試食は飛ぶようになくなったが、甘納豆の試食はぽつんと残ってしまった。甘納豆を食べた人の表情を見ても、受け入れられていない事実は歴然だった。 豆を甘く煮て、菓子として食べる習慣が少ない海外では、甘納豆は受け入れられにくかったようだ。 しかし豆はグルテンフリーで、低カロリー、さらに植物性のためヴィーガンの人も食べることができるというメリットが3拍子揃っている。近藤は、まだ勝機があると考えた。 「たくさんのブースを見ていて、チョコレートとジェラートは世界中で食べられていることに気づいて。 それらと甘納豆を組み合わせたら、若い人や、もしかしたら海外の人にも食べてもらえるんじゃないかと思ったんです」