京大院卒・研究者志望の若者が「おばあちゃん家のお菓子」の跡継ぎに。大胆改革のカギは“データ化”
「甘い納豆なんて気持ち悪い」 同級生が放ったひょんな一言は、中学生の近藤健史の頭から離れなかった。以降、代々続いてきた家業である甘納豆屋を隠して、学生時代を過ごした。 【全画像をみる】京大院卒・研究者志望の若者が「おばあちゃん家のお菓子」の跡継ぎに。大胆改革のカギは“データ化” 家業を継ぐ気はゼロ。むしろ、生き物好きの近藤は、京都大学大学院で微生物の遺伝子を研究する道を選ぶ。 しかし34歳になった今、近藤は、家業の4代目として甘納豆屋の再興に尽くしている。京大大学院卒の若者が、なぜ甘納豆屋になったのか。
甘納豆「種を愉しむ」新感覚の種の菓子とジェラート
「斗六屋(とうろくや)」は、昭和初期、近藤の曾祖母が京都祇園・南座前で立ち上げた甘納豆専門店だ。近藤の祖父と叔父が家業を引き継ぎ、98年間のれんが守られ続けてきた。 2020年に近藤が4代目に就任して以来、従来の「甘納豆」のイメージを覆すような商品も手がけてきた。それが、「種を愉しむ」というコンセプトのもと「種菓(しゅか)」と名づけられた豆菓子だ。 甘納豆の定番の黒豆以外にも、ピスタチオやカカオなど若者も親しみやすい変わり種もある。 他にも、甘納豆屋でありながら、ジェラートも手掛けている。 通常、ジェラートを作る際に使われる牛乳を使用せず、豆乳をはじめとする豆やナッツなどの“種”を用いることでコクを出している。さらに、甘納豆の製造過程において生じるシロップを使い、“種”の風味を存分に楽しめるのが魅力だ。
甘納豆が嫌い、家業を継ぐ気もゼロ
「僕、子どものころは甘納豆がそんなに好きじゃなかったし、家業を継ぐ気もなかったんですよ」 今の姿からは想像できない過去を、近藤は笑いながら語る。 近藤は小学生のころ、両親の離婚を機に斗六屋に隣接する母の実家に引っ越すことになる。家業とはいえ、ほぼ甘納豆を食べることなく育った近藤は、特に家業に対する愛情は持っていなかった。 大学では、幼いころからの生き物研究の夢を叶え、微生物の遺伝子の研究に励み京都大学大学院に進んだ。漠然と研究者か学者になる将来を夢見ており、「家業を継ぐ」という選択肢は、当然のようになかったという。 近藤の他に店を継げる人もおらず、3代目の叔父は、「斗六屋は、自分の代でおしまいだ」と覚悟を決めていた。 転機になったのは、近藤が京都大学の大学院修士課程1年生だった時の節分だった。 ちょうど就職活動の時期に差し掛かった近藤は、研究職から、鉄道会社職員、自動車メーカーまでさまざまな職種に興味を持っていたタイミングだった。 そんな時、社会勉強とアルバイト代を目当てに、斗六屋の節分祭への出店を手伝うことになる。普段は業者向けに製造する斗六屋だが、節分祭は一般客に直接甘納豆を販売する。 「暇やろうな」と手伝いに行ったものの、予想に反して3日間で3000人が甘納豆を購入しにやって来た。 「そこでお客様から直接『毎年、おいしい甘納豆をありがとう!』と言われて。 食べ物って、おいしいものを提供したら直接お客さんに喜んでもらえる。そんなシンプルな商いの形が、すごくいいなぁって。初めて、家業を見直したんです」 お客さんに甘納豆を渡し、現金を受け取る。そのやりとりで、近藤は自分のこれまでの生活が甘納豆によって支えられてきたことを実感し、初めて恩を感じた。 それと同時に、近藤はとあることに気付く。 「就職活動では『自分にしかできないこと』を探していたのですが、家業は僕にしかできないことだって気付いたんですよね。僕が挑戦することで、家族や甘納豆に恩を返せるかもしれない。それで、家業を継ぐことを決めました」