2024年10月現在、脚本家・生方美久は段ボール前で原稿を書いている
令和の清少納言を目指すべく、独り言のようなエッセイを脚本家・生方美久さんがお届け。生方さんが紡ぐ文章のあたたかさに酔いしれて。【脚本家・生方美久のぽかぽかひとりごと】
燃え尽きても書く
2022年の脚本家デビューから、年に1作ずつ連ドラを書いてきた。全3作の放送が終わった。長かったぁ。終わったので、創作に関していろいろ書いてみようと思う。 2024年9月現在のわたし、どうやら燃え尽きたようだ。書かなきゃいけないことがたくさんある。仕事だ。仕事は嫌でもやらなきゃいけない。お金をもらって生活しているから。書かなきゃ、書かなきゃ、書かなきゃ…………書けない。全然書けない。まぁそんな日はこの3年で時々(いや、しょっちゅう)あった。明日は大丈夫、明日は大丈夫……………………大丈夫じゃない。燃え尽きたらしい。パソコンの前に体を縛り付けて、娯楽を排除し、脳内を次回作のことでいっぱいにする。それでも書けない。終わった。書けない脚本家はただの人。人としての価値すらない。終わりだ。さよなら。と、落ち込んでいる暇もない。仕事だから。待ってる人がいるから。映画やドラマは脚本がないと撮影ができない。撮影どころじゃない。企画が通らない。監督やプロデューサーを待たせるだけ待たせて「書けなかった☆」なんて通用しない。八百屋さんが「野菜売るのやめた☆」、美容師さんが「髪切る気分じゃない☆」、ウーバーイーツの人が「移動したくない☆」って言ってるようなもの。やめちまえ案件。映画もドラマも、脚本家が無理だったら、ぜんぶが無理になる。「書けないときってどうしてますか?」って質問をよくされる。「あー、むりやり書きますね」と答えたら、質問の主は「そういうことじゃなくて」って顔をしていた。気分転換の方法とかはあるけど、それをして書ける保証なんてない。ただの時間の無駄にしかねない。書けないは恐怖。書けないは死。書けない脚本家は屍。 仕事仲間たちに「どうしよ、全然書けない」って相談したら、みんな「ちょっと休んだら?」「仕事詰め込みすぎ。一旦休めってことだよ」「休めばまた書けるようになるって」等々言ってくれた。やさしい。ただ、その「休む」がいちばん難しい。「休む」は「書く」より苦手かもしれない。書くものがある状況で休むと、休んでいる自分への罪悪感で気が狂いそうになる。なので結果的に休まらない。休まないから疲れる。疲れてるから書けない。でも休めない。負のスパイラル。 気分転換!気分転換!と、映画を観に行くと、「おもしろかった……あの脚本家さんすごいな……それと比べてわたしは……」と落ち込む。めんどくさい。散歩をすれば、家に帰ってから「2時間もただ歩いただけ!!!書けよわたし!バカ!!!!!!」と時間を無駄にした感覚に襲われる。めんどくさい。買い物をすれば「収入を得る手段をさぼっておいて買い物!?」と自分で自分を責め、食事をすれば「脳みそ働かせてないやつがなんでエネルギー摂取してるんだ!?」と生命維持活動にすら疑問を呈し、ただぼんやりとスマホを眺めては「あーあ。マイメロちゃんになりたい」と思考が停止する。めんどくさい。とにかくめんどくさい性分なのだ。その自覚があるだけ良いとも言えるし、自覚してしまうレベルだとも言える。「書けない」によって生活がすべてぐちゃぐちゃになる。何をしていても「脚本家のくせに書けない奴」として自分が存在してしまう。身体だけでなく、気も休まらない。 9月下旬にここまで書いていた。気分転換に書かなきゃいけない原稿から目をそらして、これを書いていた。10月に突入した現在。出さなきゃいけない原稿、諸々、とりあえず出せた。クオリティには不安しかないけど、見せられる形にはできた。毎度毎度難産だけど、今回は燃え尽き直後なのでより難産だった。普段は書かないことが多いプロットだったので尚更。仕事である以上、苦手なことから逃げちゃだめだな。これからはプロットともちゃんと向き合おうと誓った。あぁ、ひとまず休もう。資料読んだり、取材したり、原稿書いたりしながら、休も。でもさ、書いて提出するとさ、今度は打ち合わせがあってさ、打ち合わせがあるということはさ、次に書くものが発生するということでさ、あーあ、マイメロちゃんになりたい、なんですよね。脚本が書きたくて、脚本家になりたくて、なれたのに、脚本を書くのがいちばんしんどいんだから参っちゃいます。「天才」みたいな誉め言葉に腹が立ちます。天才だったらこんな苦しくないだろーって思っちゃう。アイデアが降ってきた!とかいう経験もないですし。思考!熟考!脳みそフル回転!頭使って書く!理詰め!理詰め!ってタイプの執筆をしております。かっこ悪い。振ってこいやアイデア。