【インタビュー】野村深山(檜三味線製作、演奏者)「日本の木の音色に信念を持って2000挺の檜三味線を送り出しました」
「最初から“皮”を張る気はなく木だけで三味線をつくり続けてきた」
──三味線を手づくりしたのですか。 「材料は、木でできた素麺の空き箱です。社長をやっていたから贈答の季節ごとによくもらっていた。その箱に釣り糸を張って弾いてみたら、まあ、可愛い音が出るんですよ、ポロロンってね。それが記念すべき“箱三味線”の第1号です。早速、三味線教室を電話帳で調べて、弾き方を教わりに行くと、先生に“こんなもの三味線じゃない、お前、なめてるのか!”って怒られちゃいました」 ──そこから改良を重ねたわけですか。 「最初から皮は張る気がなかった、猫が嫌な顔をすると思ってさ。代わりに、いろいろな和紙を張ってみたりしたけど全然ダメでしたね。結局、素麺の箱三味線に倣って、厚み3㎜の板を張るようにしたら、音の響きが俄然いい。撥(ばち)も板で手づくりして、自己流でぺんぺん弾いて楽しむうちに、趣味の域を超えて夢中になって、家族に宣言したんです。“これからは三味線一本で、お前たちを食わせる、会社はもうやめる!”と」 ──決意のきっかけ、転機があったのですか。 「津軽三味線の全国大会が青森県弘前市で開催されるという新聞記事を読んで、出かけてみたんです。山田流津軽三味線の家元で、全国大会の発案者でもあった山田千里さんのライブハウス『山唄』を訪ね、大会に参加させてくださいと直訴しましてね。 津軽三味線のことはよくわかっていなかったけど、それらしくダンダンダンダンって弾いてやろうと。当日は小柳ルミ子さんの『お久しぶりね』って曲を弾いたら、審査委員長の弘前大学名誉教授が“斬新な津軽三味線だ”と高く評価してくれて、審査委員長特別賞をいただいた。この受賞でプロの演奏者として生きていく覚悟が決まったんです」 ──公演依頼が次々ときたのですか。 「そういう状況ではまったくなくて、当面はひとりで各地を流れ歩いて、道端で木三味線を弾いてみせる投げ銭・放り銭の世界です。 それでも、名古屋の大須商店街の地べたに坐って弾いていたら、名刺をくれた人がいましてね。見たら『電話が欲しい』とメモ書きがあった。名刺の主は名古屋の芸能プロダクションの社長さんで、連絡すると“豊橋市で河内音頭の本家との共演を頼めないか”という願ってもない話で、出演料は15万円だというんです。えーッ、そんなにもらえるのかと思ってビックリしちゃいました(笑)」 ──それがプロとしての初仕事ですね。 「おまけに、その芸能プロの社長さんが“東京の仕事は、友達がいるので連絡しておいてあげる”と言ってくれて。そのつながりから始まったのが、落語芸術協会の旅公演に噺家さんと一緒に出かけて、高座で三味線の演奏を披露するという仕事でした。当時、落語芸術協会の会長は桂米丸さん、副会長が三笑亭笑三さん。その笑三師匠から直に仕事をいただくようになって、春風亭昇太さんともご一緒して大喜利をやったこともありました。 NHKテレビの『にんげんマップ』という番組から声がかかったのは、平成8年だったのかな。私と女房の裕子が夫婦で日本各地を檜三味線を弾いて歩く姿を、直木賞作家のねじめ正一さんが追いかける形のドキュメンタリーを撮りたいといわれたんですよね」 ──奥さんが相方になっていたんですか。 「私が木づくり三味線の演奏家として生きてゆくと宣言してからは、女房も覚悟を決めたんです。夫婦で猛練習の末、全国各地を歩いて、より楽しく演奏を披露するまでになっていた。新聞・雑誌にも風変わりな木の三味線の奏者ということでね、紹介される機会も増えていたんですけど、NHKの『にんげんマップ』(平成8年10月7日放送「木造り三味線は心の響き」三味線アーチスト・野村深山)は、全国放送でしたから。反響がものすごかった。いろいろなところから仕事の声がかかって猛烈に忙しくなりました」 ──海外公演も多かったのですね。 「平成14年頃だったと思うけど、初めてタイ公演に行ったら、向こうの日本人会の方から“バンコクには日本人が沢山いるので、三味線づくりを教わりたい”という話をいただいて。ふたつ返事で、引き受けたんですよ。そのときは、バンコク市内にマンションを借りて、日本から必要な材料をぜんぶカットして送って、そこを工房代わりに三味線づくりを教えたんです。出来上がったところで、弾き方も指導し、一緒に演奏会を行ないました。 バンコクの日本人会の方って、みなさん成功者で、お金持ちばかり。運転手つきの車でお稽古に来るんですから(笑)。しかも、日本人会というのは世界中にあるんですね。その関係から、ベトナムやシンガポールなどのアジア諸国、イタリアやフランス、オーストリアなどのヨーロッパ諸国での旅公演へと次々とつながった。海外は20か国くらいですが、同じところに何度も呼ばれて行ってます。日本人会の方のおかげなんですよね」
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