【能登半島地震から1年】能登・輪島市のシェフ池端隼也さん「よりよい輪島をつくりたい」発信する輪島の明るい未来
「令和6年能登半島地震」発生から1年間、輪島の街と人のことにとことん取り組んできた「ラトリエ・ドゥ・ノト」池端隼也氏にお話をお聞きしました。
5月まで続いた生きることで精一杯の日々
2024年の震災後、輪島市のフレンチ・レストラン「ラトリエ・ドゥ・ノト」のシェフ、池端隼也(いけはたとしや)さんに数度にわたって取材をしてきた。 最初に話を聞いたのは震災後3週間経ったころ。当時、池端さんは震災直後で地域の人の命をつなぐ活動をと、店にある材料などで無我夢中に炊き出しをする日々を過ごしていた。 店と自宅は全壊。被災してから2週間は自家用車に寝泊まりしながら生活していたが、「北陸チャリティレストラン」のはからいでキャンピングカーを借りることができ、ようやく足を伸ばして寝られるようになったばかりだった。震災直後からSNSでいち早く状況を発信し、義援金などを集め、地域の生産者を含む人々の命をつなぐ取り組みに奔走していた。 次に話を伺った3月中旬には、店が全壊してしまった地域の飲食店の方々と力を合わせ、「輪島セントラルキッチン」という屋台で料理を販売し“自活”の道を踏み出していた。地域の食を支える中心人物だったことから自衛隊が撤退する4月まで、輪島市から正式に有償で炊き出しの依頼があった。とはいえ断水は続き、避難所での生活を余儀なくされる方も多く、3カ月経ってもなお、その日の生活をしていくことに精一杯の状況は変わっていなかった。 そんな状況が一歩前に進んだのは5月末。断水も一部を残して解消し、最低限の生活のインフラが整いつつあった。「輪島セントラルキッチン」として活動していた飲食店の仲間も、自身の店が再開のめどが立つ人も出てきてだいぶ減った。残ったメンバーで炊き出しを続けていたが、「輪島セントラルキッチン」は6月でいったん活動終了することを決める。 炊き出しなどの需要も減り、ともに活動していたメンバーと自立への一歩を踏み出すことにしたのだ。そこで、街の人たちにも喜んでもらえて、自分たちの働く場所にもなる居酒屋を作ろうと、6月に入ってクラウドファンディングに挑戦。7月末には目標金額を達成し、居抜き物件を生かして2024年8月8日に「芽吹」をオープンさせた。 「炊き出しをやっているときに、“飲食店”は街にとってとても大事だなと実感していました。輪島は人が多いにぎやかな場所だったのに、いまは夜になると真っ暗になってしまう。とにかく、まず真っ暗な街に明かりをともして、人が集まる場所になればという気持ちでメンバーで相談して立ち上げました」と池端さんは当時を振り返る。 この場所は街の灯となると同時に、池端さんを含めた携わる人たちの自立までの助走的な場所にもしたいと考えた。自分でお金を稼ぎ、生活する基盤があることは重要だった。「芽吹」で働く人間は、自店の開業のめどが立てば“卒業”していく。現在のメンバーは10名。立ち上げた当初から顔ぶれもかなり変わった。現在は居酒屋の主人、ラーメン屋店主、漁に出られない漁師や海女、味噌屋、塗師屋の女将など多ジャンルの人々が働いている。流動的に変化していくのも特徴だ。