【昭和の映画史】世界に誇る傑作『七人の侍』 黒澤明が栄光と挫折の果てに創り上げたものとは
■海外での評価の高さと日本国内の不人気という乖離 黒澤明監督の『七人の侍』は、言わずと知れた日本映画の最高傑作であり、世界で最も有名な日本映画である。世界最高のアクション映画とも言われている。BBC英国放送協会は2018年、『七人の侍』を史上最高の外国映画に選出した。 この映画については、内容のみならずエピソードについても語ることが多くて、限られた字数では何も書けないぐらいだ。しかし名作にありがちなことだが、知名度の割に観られていないという印象がある。いくつもの配信サービスで視聴可能なので、ぜひ観てもらいたい。 舞台は戦国時代。戦乱の世で野武士の略奪に悩まされている村が、侍を雇って村を守ろうとする物語である。前編後編に分かれた207分の大作で、前編は農民から依頼を受けた侍が、仲間を集めていく過程が描かれる。 そこからして面白い。集まった侍たちは、それぞれ様々な背景を持っている。演じるのもまた個性豊かな俳優たちだ。監督、脚本、俳優、そして技術陣の全てが揃った奇跡的な作品である。 中でも三船敏郎はこの作品で強烈な印象を残し、スター街道を爆進した。共同で脚本を書いた橋本忍も昭和を代表する脚本家となり、『切腹』『日本のいちばん長い日』『砂の器』など、多くの名作を残している。 撮影技術も素晴らしい。CGはもちろん特殊撮影技術もなかった時代に、複数のカメラや望遠レンズを使って、歴史に残るアクション映画を創り上げた。物語のクライマックスとなる雨中の決戦シーンは、その緻密な構造と見事なカメラワークで、何度観ても飽きない名場面となっている。 侍たちのまとめ役だった浪人の島田勘兵衛が、最後に語る言葉も非常に印象深い。演じた志村喬は2年前、やはり黒澤の『生きる』で世界的な評価を得ていた。昭和29年(1954年)制作の『ゴジラ』第一作にも出演している。 『七人の侍』はベネチア国際映画祭銀獅子賞を受賞したほか、世界で高い評価を受けた。多くの有名監督が、この映画を手本にしたと明言している。 黒澤はその後も三船と組んで『蜘蛛巣城』『どん底』『用心棒』『椿三十郎』『赤ひげ』などの快作を製作し続け、三船もまた世界的なスターとなった。しかし、間もなく両者の関係は終わりを告げ、それぞれが挫折を経験することになる。 黒澤は「黒沢天皇」と呼ばれた完全主義者だった。撮影期間は伸び続け、制作費もどんどん膨れ上がる。『七人の侍』も延々と撮影が続き、制作費ばかりが暴騰した。馬も輸入して一から調教する懲りようだった。耐えられなくなった東宝は、何度も撮影を止めようとしたほどだ。 そんな黒澤に逆風が吹く。テレビの登場で映画産業が縮小し、もはや黒澤の完全主義は受け入れられなくなった。そこで黒澤はハリウッド進出を図るも失敗する。 昭和46年(1971年)12月22日、衝撃的なニュースが日本を駆けめぐった。黒澤が浴室で手首を切り、自殺を図ったのである。命に別状はなかったとはいえ、映画界の苦境と黒澤の孤立が明るみに出た。 2年後、黒澤はソ連の映画会社と協定を結んで『デルス・ウザーラ』を制作した。ロシア人探検家と北方少数民族との交流を描いた映画である。日本での知名度や人気は今一つだが、時代を先取りした良作だった。ソ連代表としてアカデミー賞外国語映画賞を受賞したほか、海外で多くの賞を受賞している。 以後、黒澤は海外資本で制作することが多くなった。次作の『影武者』(昭和55年/1980年)は国内で資金を調達できず、『スター・ウォーズ』や『インディ・ジョーンズ』のジョージ・ルーカスが、20世紀フォックスに働きかけて制作が決まった。この映画は興行的にも成功して、カンヌ国際映画祭で最高賞を受賞している。 続く『乱』(昭和60年/1985年)は、莫大な制作費を回収できずに赤字に終わった。しかし海外での評価は高く、アカデミー賞4部門にノミネートされたほか、全米批評家協会賞など多くの賞を受賞した。 かつて画家を目指していた黒澤作品は構図が美しいが、『乱』は特に人馬の動きが美しい。世界中で大ヒットした『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズの第二作『二つの塔』(平成14年/2002年)のラスト近くで、救援に来たローハンの騎士たちが丘を一気に駆け降りる場面は『乱』そのものだった。ピーター・ジャクソン監督自身、「あの場面は黒澤へのオマージュだ」と述べている。 しかし、この頃から黒澤作品には、海外での高評価と国内での不人気という乖離がついて回るようになる。円熟するにつれて、西部劇の巨匠ジョン・フォードなどの影響を受けた痛快なアクション性が影を潜め、芸術性を追求するようになったからだ。 以後は、スティーヴン・スピルバーグが仲介してワーナー・ブラザースが世界配給した『夢』(平成2年/1990年)、長崎における被曝体験と記憶を描く『八月の狂詩曲』(平成3年/1991年)と続く。 遺作となった『まあだだよ』(平成5年/1993年)は監督生活50周年、30作目の記念碑的な作品だった。しかし、テーマがよくわらず、同時期に公開されたハリウッド作品と比べると地味で、集客にも失敗した。 日本映画の名を世界に知らしめた黒澤明だが、没後26年、一部の映画通を除けば、中高年世代しか知らないかもしれない。黒澤と言えば、『CURE』『回路』などのホラー作品で有名な黒沢清の名前が浮かぶという人も多い。その黒沢清は『まあだだよ』が好きで、「あそこまでいったら、もはや凄いよね」と述べている。 太平洋戦争中の『姿三四郎』に始まった黒澤明の映画作りは、日本の戦後復興と共に世界に羽ばたき名声を獲得し、円熟して枯れていった。作家・内田百閒と弟子たちの交流を穏やかに描いた『まあだだよ』は、88歳まで生きた一人の日本人がたどり着いた境地とも言える。 今、日本映画はアニメが主流で実写がとても弱い。これは韓国などと比べて深刻な課題だ。今こそ、日本人はもう一度黒澤の映画を見直し、あのエネルギーを取り戻す必要があるのではないか。横文字があふれているだけの「気分だけグローバル化」を超えて、真に世界で通用する実写映画が作られることを願ってやまない。
川西玲子