『孫子』は誤解されてきた...「孫子の兵法」を実行しながら天下を取れなかった武田信玄
時の概念の欠如
信玄の鈍足ぶりは、上洛戦に限ったことではない。永禄3年(1560年)の「桶狭間合戦」で、よく整備された情報網を持っていた信玄は即座に今川氏の敗戦を知ったはずである。ちょうど川中島合戦の佳境であり、大規模な動員を怪しまれずに行うことができる状態にあった。 上杉謙信は定められた境界線を侵さない限り信玄を攻撃することはなく、北条氏康は謙信の大規模な関東出兵を前にしていた。 信玄が即時動員をかけ、東海に兵を入れれば敗走する今川軍は壊滅し、駿河国・遠江国はむろんのこと、三河国も、そして今川勢力圏となっていた尾張国の一部までをも瞬時にして併合することが可能であった。 当時の信玄の保有する軍事力から見て、それは十分にできたはずである。そうすれば信玄の領土は一気に2倍以上になったにちがいない。 しかし信玄が南下作戦に転じるのは、8年後、それも三国同盟を遵守したうえ、大義名分までも準備しようというものであった。 『甲陽軍鑑』によれば、永禄11年(1568年)5月、信玄は今川氏真に父の弔い合戦として信長と同盟する家康の三河に攻め入り、戦勝後の領土分割をもちかけた。 氏真がこれを拒絶するところから駿河国侵攻が開始され、永禄11年12月6日の第1次駿河侵攻から元亀2年(1571年)1月の第6次駿河侵攻まで約2年間、7度の遠征でようやく平定しているのである。「桶狭間合戦」からは、実に11年間を経由している。 「時の概念の欠如」は『孫子』に限らず、広く中国の政略に見られるところで、『戦国策』などを読んでも、美女を送り込んで、その後数十年がかりで敵国を衰退させる話が出ている。 もちろん『孫子』の中に、「時の概念の欠如」がストレートな表現で記述されていることはない。しかし、それは行間に隠れていて、あまりにも忠実に『孫子』通りの行動をしていると、やがて表面化してくる。 『孫子』の体現者であった武田信玄が天下を取れなかったのは、その万全で計画的な行動の中に、自分の寿命という要素がなかったからである。
海上知明(NPO法人孫子経営塾理事・日本経済大学大学院政策科学研究所特任教授)