『孫子』は誤解されてきた...「孫子の兵法」を実行しながら天下を取れなかった武田信玄
わずか20日で上洛した織田信長
信玄最後の遠征は、明らかに上洛戦であるが、織田信長の上洛戦を知っている者にとっては、とうていそうとは思えないだろう。信長の場合には上洛までの期間はわずか20日程度、なにしろ永禄11年(1568年)9月7日に開始し、26日には上洛しているのだ。 南近江では本城・観音寺城を中心に18の支城に兵力を分散させた六角氏に対し、大軍をもって力攻めにし、かたっぱしから撃破して短期間に征服してしまった。 それに対して信玄は、元亀3年(1527年)4月7日付の福寿院・善門院宛の願文の中で、ここ1年間は謙信が信濃、上野で軍事行動を取らないようにという祈願がされているから、上洛までに1年間という期間が設定されている。 二俣城攻略中の11月19日に出された朝倉義景宛の条目では、「来年五月に至り、御張陣の事」と書かれている。つまり翌年の5月には、信長を打倒する決戦が朝倉義景との連合によって遂行されるというのである。それでいて元亀3年12月28日付書状で、12月3日に帰国した朝倉義景を非難している。 元亀3年10月の西方への出陣から5月の信長打倒までの行動は連続しているのであるが、義景は、今回の信玄の行動は打倒信長というよりも、信玄が遠江・三河を領有するための戦いにすぎず、そのために多大な戦費をかけながら出陣している自らの役回りをそんなものと解釈した。 出発後2カ月たっても国境から数十kmしか進んでいない。その間に、兵力の損失を最小に抑えながら、二俣城や野田城を攻略しているのである。 信長を義景と挟撃するのが出立から7カ月後、もし野戦で信長を破ったとなれば、その後で岐阜城攻略が開始され、長期の包囲戦を展開したにちがいない。上洛はその後の話になる。下手すれば1年以上の歳月がかかった可能性すらあるのである。 もちろん、信長と野戦で決戦する場合、信長が全兵力を集中できないようにし、信玄自身は率いている兵力を出立時とほとんど変わらないよう温存し、「三方ヶ原合戦」同様に「拙速」に、瞬時に勝敗を決したろうが、そこに至るまでに膨大な時間を費やしていくのである。