『孫子』は誤解されてきた...「孫子の兵法」を実行しながら天下を取れなかった武田信玄
武田信玄の慎重さと手堅さ
『孫子』を最も体得した2人の人物、曹操と武田信玄は天下を統一できなかった。曹操は三国を統一できなかったし、武田信玄は上洛もできなかった。とくに、信玄は「動き出した孫子」といえるほどに『孫子』を体得した人物である。 戦前の中世史の泰斗・田中義成氏は、上杉謙信、北条氏康と比較しつつ、武田信玄を高評価した。 「東国に三雄あり、曰く武田信玄(中略)。顧みるに、武田氏は実利を尊び、(中略)其の尊ぶところは即ちその長ずるところなり、信玄は深謀遠慮、計成り機熟し、然後(しかるのち)に動く。然からば尺進ありて寸退なし......云々」 この一文ほど、武田信玄の本質を表したものはない。信玄は「寸退」をすることはなかったが、半面、「尺進」しかしていない。 信玄の最終目標は、上洛して覇者になることである。そのために上洛に足る軍事力を作り上げ、京都までの距離の2乗に反比例するとされる経済力の充実のために、富国強兵と財政政策に努めた。新田開発・治水・金山・特産品・荒地対策・農兵の比重拡大・共同体確立・軍事訓練・侵略と、生涯を通じて、ひたすら力を拡大した。 侵略のやり方は信玄の慎重さと手堅さを示すもので、小さな城を落とすにも万全を期し、小さな村を治めるにも細心の注意を払っている。これは、多くの人々の絶賛を集めている。 しかし、このやり方での天下統一には何年を必要とするのか? 信玄の手堅さと慎重さは、最小の費用と損失で獲物を手に入れるものであった。元亀3年(1527年)、二俣城攻略を行う際、信玄は2万2000人の大軍を率いていた。二俣城は浜松城の北北東20㎞に位置する北遠江の要所であり、天竜川と二俣川に三方向を守られた天然の堀をもった城塞でもある。 この二俣城攻略においては、城兵が天竜川から水を汲み上げていることを知って、天竜川上流から筏を流して井戸櫓の釣瓶を壊して水の手を断ち、落城させている。この攻略は遅くとも10月19日に開始されたというから、12月上旬に陥落させるまでの期間は約2カ月となる。 天正元年(1573年)1月3日に「藪の中」にあった小さな野田城を発見したあとは、金堀人夫を使って水脈を断つという方法で、約1カ月をかけて陥落させている。 これがまだ国力の少ない甲斐国を率いていた青年期ならばともかく、上洛の途上、病魔に冒され、しかも「人間50年」の時代の53歳のときの話である。