なぜ同級生の菅君は「新しい菅直人」になれなかったのか 残念だった「ヒットラー」投稿
「新しい資本主義」の時代に「新しい菅直人」
震災のあと、菅君と社会の歯車が噛み合わなくなった。野党に戻ってから、与党の政策を批判するのは当然としても、それが相手を攻撃する悪口に聞こえるのである。今回の発言もそうだ。維新の会の躍進に対する危機感があったのだろう。 小選挙区で落選し比例で復活するようになってから、僕は菅君に「もはや第一線を退いたのだから、かつての三木武吉氏や野中広務氏のように、自分が表に立つのではなく裏方にまわり、他党との調整によって少しでも政策を実現する努力をするべきではないか」と進言した。保守vs革新の時代ではなく国家再生の時代に「新しい菅直人」として役を果たしたらどうかと思ったのだ。政治家としてのキャリアは十分だし、知名度もある。頭もいいし、意志も強く、行動力もあり、突破力もある。このままではもったいない。しかしそう簡単にも変われないようだ。党としての立場もあるだろう。 たとえば最近発行された亀井静香氏の『永田町動物園 日本をダメにした101人』(講談社)という本を読んでみると、政界の裏話を暴露しながらも、最後には他の政治家を誉めている。歯に衣着せぬ直言の裏に、相手に対する信頼と敬意が感じられる。亀井氏の情に厚い人間味が出ているのだ。菅君にこういった人間味を期待するのは無理だろうか。ヒトラーの例えは明らかに不適切だ。「言い過ぎ、書き過ぎ」は誰にでもあるのだから、訂正して「新しい資本主義」の時代の「新しい菅直人」になることを勧めたいが、残念ながら年齢的にも難しいだろう。 折から、橋下氏や亀井氏の盟友だった石原慎太郎氏が亡くなった。この三人は保守系の中でも抜群の論客で、彼らも言い過ぎ、書き過ぎは多い。しかしその政治姿勢に全面賛成ではなくても、その人間性に強い魅力があることを感じる。 今の保守の強みはそこではないか。日本の政治状況が、イデオロギー選択の時代からリーダーの人間味重視の時代に移ったということではないか。その人間味が、選挙区への利益誘導や冠婚葬祭への出席で示されるものならまさに古い政治だが、テレビやSNSから滲み出てくるものなら、形骸化したイデオロギーよりむしろ新しい政治であるのかもしれない。革新系野党はそのことに気づいていない。デジタル化が進めば進むほど、政治家の生の人間性が問われるような気がする。 「煙突のあるところ蔵前あり」といわれ「職工学校」とも揶揄された現場主義の大学から、珍しく政治家が出て、しかも内閣総理大臣にまで上り詰めたのは奇跡であった。残念だ。