なぜ同級生の菅君は「新しい菅直人」になれなかったのか 残念だった「ヒットラー」投稿
ボート仲間の青雲の志
こんな経験があったので、菅直人元総理の橋下徹氏と日本維新の会に対する「ヒットラーを思い起こす」 という投稿にはやや驚き哀しい思いがした。 というのも菅直人君とは少なからぬ縁があるからだ。高校と大学の同級生であり、大学入学後すぐの学園祭で、同じ高校出身のボート部員に誘われてフォア(4人)のクルーを組んだのだ。ボート部員がコックス(舵手)で、菅君、のちに南極越冬隊長を経験し国立極地研究所の所長になった藤井理行君、そして僕がオール仲間である。練習の過程で、酒も飲み、議論もし、麻雀もやった。まだそれぞれの専門が決まる前であったが、青雲の志だけは一致していた。 菅君が政治に興味をもっていることを感じたのは、永井陽之助先生の「政治学」の講義でよく質問していたからだ。大学紛争が起きると、彼は過激派学生と大学側のあいだに立つグループを立ち上げた。メガフォンを手にして熱心に演説する姿は不屈の闘志を感じさせ、思想と立場はともかく、僕はその行動力に胸を打たれた。 市民運動家として市川房枝さんを担いでから政治の世界にデビューし次第に頭角を現した。僕らは高校の同級生を中心に応援のグループをつくったが、なぜか当時の菅君とは逆に保守寄りの体育会系の友人が多かった。僕はテレビ朝日のスタッフと親しかったので「ニュースステーション」に出演して彼の活躍を褒めたたえる発言をした。厚生大臣になったときには祝賀会もやった。薬害エイズの問題では男を上げた。総理大臣になったとき、僕は名古屋のテレビ局でコメンテーターをしていたので、思いっきりエールを送った。中日新聞にも期待する趣旨の記事を書いた。与謝野馨氏を経済財政政策担当の内閣府特命担当大臣に一本釣りしたのも見事だった。そんな彼がなぜあんな投稿をしたのか。
福島第一と巨大タンカー
菅内閣の支持率が下がりはじめてからしばらくして東日本大震災(2011年3月11日)が起きた。福島第一原子力発電所の事故では、原子炉に給水ができず、核爆発の危機にも直面したのだが、さまざまな手段によってなんとか免れた。しかし今度は放射性物質を含む水が海に流れ出すことが問題となった。 僕は汚染水処理にタンカーを使うことを思いついた。かつて株式会社IHI(旧石川島播磨重工)から、廃船になったタンカーの都市利用に関する委託研究を受けたことがあるからだ。日本では30万トン級の巨大タンカーが日常的に廃船されており、解体してスクラップするのにも金がかかる。これを建築として利用できないかというのである。名古屋港の一角に係留して、ホテルとショッピングセンターとレジャーランドを兼ねた設計図を描き、IHIとともに名古屋市に提案したことがある。 その経験からタンカーの構造をよく知っており、汚染水を溜め込むにはうってつけだと考え、IHIの技術者に電話して検討してもらった。何回かの電話のやりとりののち、双方で「行けそうだ」という結論に達したので、首相官邸に電話して秘書官に説明した。秘書官は乗り気になり「必ず上にあげます」と約束してくれた。2011年の3月26日から28日にかけてのことである。