里中満智子「なぜマンガ家になりたいと思ったのか。約60年描き続ける原点は、小学6年生で起きた考え方の変化」
令和5年度の文化功労者に漫画家の里中満智子さんが選ばれました。高校在学時の1964年に『ピアの肖像』で第1回講談社新人漫画賞を受賞した後もなお、数々のヒット作を生み出してきた里中さんが歩んだ道のりとは。幼少期の頃、団塊の世代で同じ年の子どもが多い環境で育つ中、マンガ家になりたいと思ったきっかけとは―― 。 【書影】幼少期から現代、そして未来への展望までを綴る。里中満智子『漫画を描くー凛としたヒロインは美しい』 * * * * * * * ◆将来への不安から、マンガの道を志す 「私たちの半数は、きっとお嫁に行けないね」。小学生の頃、同級生の女子とよく話し合っていました。 1948年1月24日生まれの私は団塊の世代で、同じ年の子どもがとても多いのです。 ベビーブームとは言われていましたが、団塊の世代という言葉は1976年に堺屋太一さんが発表した小説で作られたので、当時はまだありません。 対して1学年上は、私たちの半分くらいしかいませんでした。そこはまだ敗戦の傷痕が深い「焼け跡世代」で、出生数が少ないのです。 私たちの学年は教室からはみ出るくらい生徒がたくさんいたのに、1年上はスカスカ。当時女性は「少し年上の人と結婚する」のが常識のように思われていて、だから、「私たちはきっと結婚できないよね、かわいげないし」と思っていました。 そんな悲観は実は必要なくて、同級生や年下と結婚すればいいだけなのですが、その頃は「夫は年上」という世間一般の考えに引きずられていたのです。 大人になって、同級生やけっこう年下の男性と結婚している人がいて「その手があったか」と思いましたが。
◆後悔のないよう生きなくては だから私たちは早くから、危機感を持って自分一人で食べていく方法を考えました。 「学校の先生になろうかな」「私は看護婦(看護師)」など、将来設計をよく友だちと話し合ったものです。 女の子のなれる職業はまだまだ少なく、バスガールにエレベーターガール、薬剤師などでしょうか、女の子だからなれる職業にまず目がいくのです。 でも男か女か、性別の関係ない職業って素敵だなと思いました。マンガ家がそうだなと思ったのです。ペンネームを使えば、男か女か分かりません。 まず、絵や文章が好きでした。友だちのリクエストでよく日本や西洋のお姫様、恐竜などを描いていて、鉛筆でマンガも描いていた。 作文や詩を書く授業では、いつまでも書き続けて、制限時間内に終わらないものだから、かえって点がもらえないほどだったのです。 根暗な上にだらしないという欠点もありました。死が怖くて、放課後に同級生と別れるときも、再び会えるのか不安で「さよなら」の後に「また明日ね」と必ずつけ加えました。 そんな心配性で小心者なのに、夏休みの宿題はいつも、最後の3日まで手をつけないのです。 夏休みは長いから大丈夫、とダラダラしているわけですが、6年生の夏休みのある日、はたと気づいたのです。 もし人間の寿命が100歳と決まっていたら、私など99歳と半年までダラダラしそうだ。いつ死ぬか分からないからこそ、人間はシャキッとするのだ。私も、たとえ長く生きられなかったとしても、後悔のないよう生きなくては、と。 私にとって、人生の転機ともいえる考え方の変化でした。
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