人気女優と結婚、伝説の組長と交流も…“昭和プロレスの語り部”マイティ井上が急逝 生前語った「国際プロは猪木の踏み台」「燃える闘魂はパクリ」の真意
アンドレ・ザ・ジャイアントも国際プロ→新日へ
井上さんが挙げた「新日本の国際喰い」の実例は、これにとどまらない。 吉原社長によって発掘され、1970年に初来日を果たした無名時代のアンドレ・ザ・ジャイアント(当時のリングネームはモンスター・ロシモフ)も、人気が出たところで新日本に横取りされた。 団体末期の1981年にはラグビー出身のホープ阿修羅・原が必殺技「雪崩式ブレーンバスター」をひっさげ凱旋帰国したが、この技の存在を新聞記事で知った新日本の木村健悟が、阿修羅・原本人より先に新日本プロレスのリング(藤波辰巳戦)で「国内初披露」するというえげつない行動に出る。 結局、この掟破りもあって原の「雪崩式ブレーンバスター」はインパクトが削がれる格好となってしまった。 1981年に国際プロレスが崩壊した後、ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇の3選手が新日本に殴り込み。「はぐれ国際軍団」として猪木潰しに名乗りをあげたが、マッチメーク面では猪木1人と国際軍団の3人が闘う「1対3変則マッチ」など、屈辱的ともいえる扱いを受け、軍団は2年で自然消滅した。 「予想通り、木村さんやハマは新日本の肥やしにされてしまったよな。ボクも当時、吉原社長から『新日本に行ってくれないか』と打診されたけど断った。そうしたら『ゴング』の竹内宏介編集長(故人)が馬場さんに話をつないでくれて、ボクと阿修羅、サムソン冬木、アポロ菅原を全日本プロレスに入れてもらうことになったんです」 団体が崩壊した後も、元国際戦士たちの絆は強かったという。 「貧乏団体が生き残るためには、金網デスマッチを毎日やるしかないとなれば、木村さんだけに任せちゃおれんということで、みんな交代でケージに入りましたよ。外国人だってそう。ジプシー・ジョーって選手がおったでしょ。背中が鉄板のように硬くて、イスでバンバン殴ってもまったく効かない。いつだったか客のハイヒールで殴ってやったらハイヒールのカカトが砕け散ったよね。でも性格は本当にいい奴で、その後もあいつが日本に来るたび、お互い体を張って、血と汗を流して国際を支えた思い出話をしたものですよ」
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