人気女優と結婚、伝説の組長と交流も…“昭和プロレスの語り部”マイティ井上が急逝 生前語った「国際プロは猪木の踏み台」「燃える闘魂はパクリ」の真意
国際プロは「猪木と新日にいいところを持っていかれた」
井上さんは、1967年に国際プロレスでデビューを果たし、1981年に同団体が崩壊するまで主力選手として活躍した。プロレスラーとしては小柄な体格をカバーしていたのは、海外遠征で磨いた負けん気の強さと強烈なプロ意識である。 「新日本プロレスは信用できなかった。国際は全部、アントニオ猪木と新日本にいいところを持っていかれた。いわば踏み台にされたわけだ」 井上さんが常々語っていたのは、国際プロレスへの愛情と、新日本プロレスへの不信だった。1974年、破格の条件で新日本プロレスに移籍した国際プロレスのエース、ストロング小林(2021年に死去)に対しては「いまでも許せない」と言い切った。 「あいつは、自分のことしか考えてなかった。(グレート)草津のおっさんといろいろあったにせよ、カネに目がくらんだ結果だったからね。裏切りですよ。彼は自分ひとりの力で国際のチャンピオンになったわけじゃない。(ラッシャー)木村さんやハマ(アニマル浜口)あたりは何も言わないけど、ボクはこうして自分の言葉でハッキリ言いますよ。でも新聞や雑誌は書いてくれないんだ。誰に遠慮しているのか分からんけどね」 ストロング小林が新日本に移籍した一件の背景には、待遇面のほか、国際プロレスの同僚だったグレート草津との確執があったとされる。プロがよりよい条件を求めて動くことは決して否定されるものではないが、義理人情を重んじる昔気質の井上さんは、結果として団体衰退に至る引き金となったストロング小林の電撃移籍を最後まで容認しなかった。 「アントニオ猪木が“燃える闘魂”というキャッチフレーズを使うようになったのは、新日本ができた後の1974年ごろ。でも“闘魂”という言葉はそのずっと前から国際プロの吉原功社長が使っていた。もともとは、吉原社長にとって早大レスリング部の先輩にあたる八田一朗さんが使っていた言葉なんです。つまり新日本にパクられたということですよ」
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