中野翠「90歳で亡くなった母の日記を発見。家族にとっては貴重な記録。これからは自分史年表に、日々の暮らしもつけ足していく予定」
実用本位で自分史年表を書きはじめたという、中野翠さん。時代が放つにおい、刺激的な人との出会い、家族の思い出が浮かびあがって……(構成=内山靖子 撮影=藤澤靖子) * * * * * * * ◆コラムニストとしての自覚が生まれた80年代 1960年代から2020年代まで、自分が手がけてきた仕事を書き留めたことで、それぞれの時代が放っていた空気もあらためて思い出すことができました。 なかでも私にとって大きなターニングポイントになったのは、80年代。日付が1980年になった瞬間の嬉しさは、いまでも忘れられません。 70年代は、学生運動を経験した自分と同世代の人間による連合赤軍事件などが起こり、重く、薄暗く、生々しい印象がありましたが、1980年と数字が変わったことで、なんだか暗いトンネルから抜けて、突然パーッと視界が開けたような解放感を感じたんですよ。 苦手に思っていた「神田川」のような和製フォークの時代から、サザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」のように、明朗で軽やかな世界に一気にシフトしたと言いますか。 80年代は、出版界や雑誌文化も活気づいていたので、毎日がお祭りのようで、とても楽しかったし面白かった。
そんな時代の波にちゃっかり乗って、いろいろな仕事をしているうちに、物書きとして自分がやりたいことや、「これしかできない」こともわかってきた。 私は、ヒトやモノやコトに関心がある。自分の思いをストレートに語るエッセイストより、映画やファッション、社会現象などを通じて自分が感じたことを書くコラムニストのほうが向いているのではないか、と。 自分の資質に気づいたおかげで、83年頃からは、いまに通じる映画紹介コラムの仕事も増えてきました。 85年から現在まで39年続いている『サンデー毎日』の連載もスタート。『週刊文春』映画評の連載も35年くらいですかね。 それまでは女性向けのファッション雑誌がメインだったのが、「おじさん週刊誌」でコラムを書くようになったことが、私にとっては、むしろ、いい方向転換になったのだという思いも込めて、雑誌連載が始まったことも年表にしっかり記しておきました。 東京・勝どきに引っ越してきたのが、86年。それまで住んでいた代々木のマンションから移ったのは、親しくしていた女友達が勝どきに引っ越して、昔ながらの街並みが残るこの土地に魅力を感じ、銀座にも近い、という単純な理由から。 まったくの偶然なのですが、じつは、ここは父が生まれ育った町だったんです。父の父にあたる私の祖父が、勝どきで工業試験場の技師をしていたそうで。 父は86歳で亡くなりましたが、生前、「勝どきに引っ越したのよ」と伝えたとき、なんだかホッとした顔をしたのを思い出しました。 仕事の変遷をメモした年表なのに、「86年、勝どきに引っ越し。そこは父の生地だった」なんて、つい書き留めてしまったのだけれど、我ながら面白い偶然だったな、と感じます。
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