西暦1966年は悪魔元年だった...サミー・デイヴィス・Jrが信仰した「悪魔教」の実態 米
「これは非常に利己的な宗教だ」とラヴェイは悪魔教について語った。「我々が信じるのは欲望と利己主義だ」
「これは非常に利己的な宗教だ」とラヴェイは悪魔教について語った。「我々が信じるのは欲望と利己主義だ」 ウィル・マスティン・トリオとして巡業しながら、デイヴィスはあっという間に成長し、生まれながらの才能を発揮していった。1943年に徴兵されると、喝采は白人兵の罵声や拳骨に変わった。白人兵から何度も鼻をへし折られ、鼻柱は永久につぶれたままになった。全身を白いペンキまみれにされ、胸にはNワードを書かれた。一度は放尿されたこともあった。エンターテインメントの才能でいじめが収まるのではとの期待から、軍人娯楽センターでショウを開いた。「パフォーマンス中は、奴らは急に俺のことを忘れた。自分でさえ忘れそうになることもあった」。 除隊したデイヴィスはウィル・マスティン・トリオに復帰し、一気にスターの階段を駆け上った。レコード契約、TV出演、大会場での公演が続いた。そんな時、1954年に車の衝突事故で死にかけた。片目を失って義眼を入れる羽目になり、そこから彼の心の旅が始まった。最初はサイエントロジーの本を読んで「覚醒」し、やがてユダヤ教に行きついて、しばらく信仰した。ユダヤ系の友人ジェリー・ルイスに改宗したことを告げると、「まだ悩み事が足りないのか?」と言われた。 どうやらその通りだった。デイヴィスは美しい白人女優のキム・ノヴァクと浮名を流した。コロンビアピクチャーズのハリー・コーン社長は、看板女優と黒人男性の戯れが報じられると怒り狂い、「ノヴァクにかまうな、黒人女性と結婚しろ。さもなくば、もう片方の目も失うぞ」という脅迫状をデイヴィスに送った。デイヴィスはしぶしぶ同意し、ろくに知りもしないシンガーのロレイ・ホワイトと電撃結婚したが、ひとつ屋根の下で暮らす間もなくすぐに離婚を申請した。 1959年、デイヴィスはスウェーデン人の女優メイ・ブリットと恋に落ちる。2人は翌年結婚したが、当時はまだ異人種間の結婚が31州で違法だったため、白人至上主義グループから嫌がらせの手紙や抗議の声が上がった。 ショウビズ界の仲間といれば安全だとデイヴィスが考えていたなら、半分は正しいが、半分間違っていた。50年代後半、デイヴィスはフランク・シナトラ一派に加わってラット・パックを結成。世間からはクランと呼ばれたが、デイヴィス本人は不快に感じていた。メンバーからはしょっちゅう人種差別的な嫌味でいじられた。シナトラはデイヴィスを「スモーキー」というあだ名で呼び、暗闇では笑ってくれないと見分けがつかない、とからかった。ディーン・マーティンはデイヴィスを両腕で抱きかかえ、「このような素晴らしいトロフィーをいただき、NAACP(全米有色人種向上協会)に感謝します」と言った。 異人種間の結婚のせいで、デイヴィスは政治的にも厄介者になった。ジョン・F・ケネディ大統領の就任時には、パーティでパフォーマンスし、ブリットと連れ立って式典にも出席する予定だったが、3日前になってケネディ大統領の個人秘書から電話があった。「大統領から、式典へのご出席はご遠慮いただくよう伝えてほしいと言付かりました」。 60年代に入ると、デイヴィスは次第に孤立化した。白人社会にはあまりにも前衛的で、黒人の過激な連中にはあまりにも後進的だった。マーティン・ルーサー・キングJrとともにワシントンやアラバマ州セルマの行進に参加したこともあったが、ブラックパワー運動からは「後ろ指を指されても仕方がない白人同調者」とレッテルを張られた。なにしろ結婚相手が白人女性だ。これを受け、60年代後半にデイヴィスは髪を伸ばしてアフロにし、ダンサーあがりの黒人女優アルトヴィス・ゴアと交際した(後に結婚)。聡明で美しく、若くて近代的なアルトヴィスは、慣習に縛られない結婚を望むデイヴィスを受け入れた。「周りはあなたのことを大工って呼んでるわよ」と彼女はデイヴィスに言った。「出会う女性をことごとく釘付けにするから」 名声のわりには、デイヴィスのギャラはいつもそれなりだった。70年代に差しかかるころには時代の波にも取り残された。出演作は大コケし、アルバムの儲けは雀の涙(作曲家ではなかったし、原盤権も持っていなかった)。ファンは高齢化し、彼のハッタリ(デザイナーものの民族衣装やビーズ)に見飽きた子ども世代は、彼の芸に無関心だった。 必要とされたいという欲求から、デイヴィスは人種的にも、性的にも、政治的にも、慣習や王道から決別した。結果として民主党とは袂を分かち、手をこまねくリチャード・ニクソンへと鞍替えした。1972年の全国共和党大会では、見るからにきまり悪そうなトリッキー・ディックことニクソン氏を抱擁したが、これが世間の怒りを買い、キャリアを棒に振りかけた。 単発のゲスト出演を繰り返し、『オール・イン・ファミリー』でアーチー・バンカーにキスするという衝撃のアドリブでひと騒動起こした末に、デイヴィスが起死回生をかけて臨んだのがTVシリーズ『Poor Devil』だった。契約を結ぶ際、バレットやサルタンに「再放送料をよろしくな」と言った。 本人も明かさなかったし、ライフスタイルからも分からなかかったが、デイヴィスはずいぶん前から一文無しだった。1950年代中期、ウィル・マスティン・トリオを脱退してからというもの(将来のギャラの一部を取り分として提供するのが交換条件だった)、デイヴィスは負の連鎖にハマっていた。借金は膨れ上がり、ナイトクラブでのギャラはその都度借金の返済に消えた。手に負えない浪費癖も災いした。大金が入れば、それ以上に散在した――カジノの公演で3万ドル稼げば、4万ドルをカード賭博でする、といった具合だった。デイヴィスは生涯通じて5000万ドル以上を稼いだが(帳簿に記載されていないギャラは除く)、死亡時には1500万ドル以上の借金を抱えていた――税金の滞納が700万ドル、マスティン財団への返済が400万ドル、カリフォルニア州には200万ドル近い滞納金。細かいところではビバリーヒルズのカメラ店に1754ドル、地元の薬局に523ドルのツケが残っていた。 「悪魔の祝福、地獄の恩恵を受けし者よ、前に進みたまえ」。赤い照明を浴びながら、ラヴェイは黒いマントと角のついたフードをまとっていた。手にした剣で、群衆の中から1人の男を前に呼び寄せる。「汝の願いは何ぞや?」。 ラヴェイの背後には裸の女性が祭壇に腰掛け、もう1人の裸婦の尻を愛撫しては叩くことを繰り返していた。祭壇の上にはバフォメットの秘印――ヘブライ語の飾り文字と円で囲まれた五芒星の内側に、ヤギ頭の偶像をあしらったオブジェが吊るされている。山高帽に蝶ネクタイ姿の男がラヴェイの前に立ち、高らかにこう言った。「近所に越してきたばかりの若く美しい銀行員の胸の内に、飽くなき欲求を掻き立ててくださいますよう、悪魔様にお願い申し上げます。彼はロジャーと名乗っておりました」。 ラヴェイは男性の頭に剣を置き、祈りを唱えた。「飽くなき欲望をロジャーに宿し……汝のもとに召したまえ。獣のような飢えた炎――肉体のほとばしり――が大気を貫き、渇望する汝の肉体で受け止めさせたまえ。性欲を最高潮のまま維持したまえ。ロジャーの耳に願いが届き、汝のもとへ向かわせ、夜に今日という1日が終わらんことを。叶えたまえ。シェムハメフォラシュ」。ラヴェイの後に続いて信者が繰り返す。シェムハメフォラシュ、悪魔万歳。 この儀式から約3年後の1966年4月上旬、タイム誌は「神は死んだか?」と問いかける表紙でアメリカ社会を震撼させた。3週間後の4月30日にラヴェイはサタン教会を設立し、西暦1966年を悪魔元年と定め、自らを最高司祭に任命した。 ラヴェイはその晩、教会の公式史料が言うところの「中世の死刑執行人の伝統」にのっとって、剃りたてのスキンヘッドでブラックハウスに現れた。坊主頭にメフィストフェレス風のあごひげといういで立ちは、コミック版『フラッシュ・ゴードン』のミン皇帝や、映画でおなじみのいかがわしい悪魔教信者を連想させる――ラヴェイは擬人化されたポップカルチャーのイメージに手を加え、最高司祭のイメージを作り上げていた。映画製作者のケネス・アンガーがのちに友人に語ったように、「アントンはショウマンだった。彼にとって悪魔教はショウビジネスだった」。 ラヴェイの人生はまるで映画そのものだった。1930年4月11日、シカゴで生まれたハワード・スタントン・レヴェイは、やがて家族とともに北カリフォルニアに引っ越した。少年時代はホラー映画が大好きで、様々な楽器を操った。1991年にローリングストーン誌で本人が語った話では、13~14歳のころに退化した尻尾の除去手術を麻酔なしで受けたという。 そこからさらに怪しさが増していく。本人いわく、家出してサーカスに入団し、ライオンの調教を学んだ。様々なクラブでオルガンを弾き、若かりしころのマリリン・モンローと一夜を共にしたこともあった。犯罪カメラマンとしておぞましい現場を度々目にし、この世には慈愛に満ちた神などいないと確信するに至った。それ以前からラヴェイは体系化された宗教とは距離を置いていた。カーニバルのオルガン奏者だった彼は、土曜の夜に肌も露わな若い女性に欲情した男どもが、日曜朝のテントのミサで平然と信徒席に座り、祈りを捧げるのを目の当たりにした。「その時、キリスト教会は偽善の上に繁栄してきたことを知った」と伝記作家のバートン・H・ウルフに語っている。「光の宗教がどれほど清め、どれほど罰しても、人間の肉欲的な性質は表に現れる」。1950年代後半にはサンフランシスコで魔術サークルを結成し、黒魔術やオカルトを探求した(アンガーをはじめとする友人や、デンマークのカリン・ド・プレッセン男爵夫人、フリッツ・ライバーやオーガスト・ダーレスといったファンタジーSF作家、出版社H.P.Lovecraftの初代社長などが常連だった)。評判が広まるにつれ、ラヴェイは黒魔術をもっと大勢に広める方策はないかと模索した。60年代中盤にには、200年にわたる無知と抑圧を打破するためには真の宗教と教会が必要で、キリスト教のすべてを根底から覆し、拒絶するべきだと考えていた。 ラヴェイの悪魔教は伝統的な罪の概念とは無縁で、来世のためではなく1日1日を生きるよう説いた。彼が第一に掲げたスローガンは「悪(evil)を逆から読むと生(life)になる」で、次が「人間の内なる獣は取り除くのではなく、調教するべき」だった。自らの欲求を解放して初めて自由になれるのだ。「肉欲崇拝が快楽を生むのだから、神々しい享楽の寺院もあるはずだ」とラヴェイは言った。 ラヴェイのサタン教会を淫行にかこつけた茶番以外の何物でもないととらえたなら、根底に流れる理念を見逃していたことになる。そのヒントになったのは、カール・ユングやアイン・ランド、アイレスター・クロウリーなどの思想だった。そうした理念がすべて素晴らしいとは言わないが――ラヴェイは社会進化論にも系統していた――そこがポイントだった。悪魔教は人間の本質の根源から目を背けたりしない。「これは非常に利己的な宗教だ」とラヴェイは言った。「我々が信じるのは欲望、そして利己主義だ」。 教会設立から6カ月も経たないうちに、ブラックハウスにはカウンターカルチャーは当然のこと、体制からも信者が集まって来た。もっとも有名なのがハリウッド俳優のジェイン・マンスフィールドで、ラヴェイから聖職位を授与されている。金髪でセクシーな女優は、その後自らの発案で挑発的な悪魔教の写真を撮影し、おそらくラヴェイとも関係を持っていた。悪魔司祭はマンスフィールの恋人に呪いをかけ、恋敵が1年以内に車の衝突事故で死ぬだろうと預言した。8カ月後の1967年6月、マンスフィールドと恋人と運転手を乗せた車は停車していたトラックに突っ込み、3人とも死亡した。車の屋根はサバ缶のようにぱっくり開いていた。ハリウッドスターの首がもげたというマスコミの報道は、あながち誇張ではなかった。 1968年には、偉大なる誘惑者は誰より飛躍の1年を迎えていた。ローリングストーンズはアルバム『サタニック・マジェスティーズ』をリリースし、数カ月後には歴史に残る名作「悪魔を憐れむ歌」を収録した。60年代サマー・オブ・ラブのピースなイメージに変わり、沸々とたぎる怒りが現れ、長らくB級映画の定番だった悪魔教崇拝はローマン・ポランスキー監督の『ローズマリーの赤ちゃん』とともにメジャーの仲間入りを果たした。映画の肝となるシーンで、悪魔教信者が期待を胸に祝詞を上げる中、ミア・ファロウが悪魔に犯され、赤子を孕む。本人が広めた都市伝説によると、毛むくじゃらの悪魔の着ぐるみを着ていたのは何を隠そうラヴェイだった。 こうした世情を背景に、デイヴィスは同年ハリウッドのナイトクラブで若い俳優の一行と出会い、悪魔教の式典に連れられた。これが悪魔教との最初の出会いだと思われる。頭巾を被った僧侶がゴム製のディルドを取り上げ、祭壇に横たわる裸婦に挿入し、祈祷を始めた。「とにかく面白かった、儀式とか地下牢とか、ドラゴンとか道楽とか」とデイヴィスは後に記している。「女が満足してて、ディルドより鋭利なもののを挿入しない限り、俺は一向にかまわなかった」。